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歴史は疑う所から入るべし [シェブロン県の話]

と、お知りあいの方からご教授された通り、歴史ものは結構見事に通説や教科書に至るまで間違いだらけである。

なぜなら、…人類は過去を正確に知ることができないからだ。一秒前のの過去から、何が正しかったかなど誰もかれも知りえはしない。そんな科学や哲学を論じるまでもなく、考古学は過去の遺物から最終的に『妄想』を繰り広げるものであり、それがリアリティを伴った想像であり、妄想であるからこそなんかこう、ロマン的な感じに浸れるんだろう。

 というわけで歴史はまず疑う所からはじめない事には始まらない。一冊物の本を読んで、その内容だけで事をうのみにはできないし、確実と残されている書物さえ、本当に当時をそのままそっくり書き残したものではあるまい。色々な『可能性』が想像できる。その想像の振れ幅だけ過去に向けた真実は枝分かれをし、その分輪郭はぼやけてあいまいなものだ。

 そこをちゃんと念頭に置き、言い聞かせるようにして歴史ジャンルに足を突っ込んでみました。
 そのため、第一に調べている本間家関係も伝えるモノの大半は『善きもの』とすることをまず、疑わない事には始まらない。そりゃ、好きで調べてるんだから『善き』ものであることは喜ばしいし歓迎したい所ではある。でも本当にそうだったかなんてもはや誰にもわからないんだ。

 悪い存在としての一面を暴くことになったとしても、そしてそういう側面を書くことになっても構うまい…
 そんな感じで日々得た情報をもとに、彼らの居た『過去』を妄想する日々でございます。

 さてそれで今回はどういう話をしたいかというと どーじんし の方でも発行してこっそり書いた通りなんですが…
 古今東西なにからなにまで、ものの見事に間違って伝えられている事をいい加減、ここで正してみてもよいのではないかという事です。

 具体的に言うと、シェブロン県酒田の豪商、豪農、と書いてある場合もある。本間家三代目である 本間光丘が一代のうちに築いたという富についての 数字だ。

*** *** ***

本間家についての現代人も無理なく読める資料の第一資料は、酒田市史資料編の5巻と6巻だろう。こちらは本間家が蓄積魔の性格を持っているためがっつり残っている当時(江戸時代中期)からの資料という資料を、抜粋してまとめた資料である。酒田市史において本間家とは分厚い資料本1冊と半分があてられるくらいに『酒田の本間か、本間の酒田か』なのであった。
 あと、もう一つの理由として酒田は江戸並に火事が多く浜風強い地域柄一度萌えると類焼被害がひどいのだ。そういう都合、資料の多くが火事で燃えてしまって存在しない中、現在の旧本間家だけは建設されて後一度も類焼していないし地震にもびくともせずに残っていたため、本間家の資料が酒田市史をまとめるに非常に役立っているという事でもある。
 この酒田市史資料編5巻は 昭和46年に発刊されている。
 
 以下敬称略をご容赦いただきたい。

 斎藤美澄が本間家の蔵に出入りし、資料を整理しつつ明治時代に依頼されて飽海郡史を書いている。斎藤美澄は他荘内藩関係でも色々と書いておられる。
 この方が本間家の所持する書類を整理したおかげで今ある資料は成り立っているといっても過言ではないのだろう。酒田市史資料編5を読むとそれがよぉくわかる。
 ところでさすがにこの分厚い市史がおいそれ多くの書架にあるわけがない。まぁ、あって庄内いちえんの学校関係、役所、図書館などに収められたものと思われる。で、私はそれが売りに出されているのを見て面倒じゃ、買ってしまえと今一冊手元にあるわけですが…。

 それは一地方史を攻めているから出来る事であり、例えば、全国的な何かしらの資料をまとめた本を一冊刊行する事になった出版社は、一ページの記事を書くためにいったいどこから資料を得るか?

 さてそれで昭和47年。酒田市にある光丘文庫という古書の類を大切に保管している図書館がございます。こちらの館長をも務めていらっしゃった佐藤三郎が…昭和47年刊行で『酒田の本間家』という比較的手に取りやすいサイズの本を出していらっしゃる。
 この佐藤三郎は酒田市史編纂にも関わっている第一人者でございます。

 こちらの本も真っ先に手に入れてあるので私の手元にあるわけですが、この佐藤さんの文体は非常に読みやすくかなりの書籍でお世話になっております。
 しかし鶴岡(殿が居る方の町)の歴史本なども多くが斎藤美澄と佐藤三郎の手によるものが多く(笑)…まぁ、そういう事から鶴岡側の書籍を読んでみても若干酒田寄りの編纂になっているような気もしないでもないな、と思ったりします…。
 それはさておきこの『酒田の本間家』という本は、非常に本間家というのを知るのに良い資料の縮図となっているのだ。これ一冊読めば大体のことは把握できるといって過言ではないだろう。

 というわけで間違いなく世の酒田を、あるいは本間家を紹介する本において参照として使われているのはこちらの本なのです。その決定的な事実が、
 三代目光丘が一代のうちに築いた財の金額がいくらだったか、というくだりでよーーーーくわかる。

*** *** ***

 先だって分かり易く本間家、というコンセプトでどーじんしを出しているわたくし目は、冒頭解説の為の3ページに収める四コマ漫画でおおよそ…1か月くらい…躓いていた。

 金銀の価値や米の物価を当時の物価指数をエックス代入して現代にしてどれくらいか、というどんぶりそろばんをはじいていたのでした。そのまま資料のまま金銀で書いたって、わかるわけがない。
 現代の価値で説明しなきゃ わかるはずがない。まず俺がよくわからん。実感がわかない。

 田地は米一万六千表
貸金金五万四千余り両、銀四万九千余り貫… わからないだろう?

 というわけでまず金と銀について調べ、相場を調べ、数え方の単位を調べるわけです。

 江戸時代において、金は東日本で使われ銀は主に西日本で使われていました。裏日本まで銀です。つまり、荘内藩のおとなりである新潟までは銀であるらしい…というか、荘内は裏日本所属なのかどうなのか、なんとなく含まれている気もするが、西方貿易『西回り航路』の弁財天(北前船)が活躍し始める頃なので、もしかすると銀なのかもしれない。…少なくとも酒田では。
 でも殿様に収めているのは資料の上ではどれも金なので、まぁ、金なんでしょう。

 金というのはよいうするに 大判小判の黄金色のアレの事で大判で小判8枚分、小判一枚が『一両』。
 江戸時代は今の様な10進法の銭勘定ではございませんで、一両の四分の一の価値ものが『1分』。このあたりにややこしい事情は知ってる。なぜって、創作小説で使ったからだよ(笑)国が違えば通貨も違うだろう、という事で西国は大体江戸時代みたいなに複雑な貨幣を使わせ、南国が10進法のパル貨幣であるからレートがどーのこーのという設定を(以下略)

 対し、銀は両とは数えない。匁で数えます。重量換算なのです。そのあたりのなぜナニはここで詳しくやると脱線するから、知りたい人は自分で調べましょう。今はいい時代です、比較的まともな答えがすぐネットに落ちています。マニアックな情報ほどネットの網からは抜け落ちるし、精査がテキトーで信用できませんが 笑

 そうやって計算機片手に計算する。数学は、得意教科じゃないけど嫌いじゃないし電卓は仕事の都合叩くので扱いには慣れている。

 田地の面積については米の取れ高で書いてあるからちょっと、計算するのが難しい。昔の田んぼでコメが1反からどれだけとれたのか、とかから調べないといけないじゃない。なので、当時のコメの物価を調べておおそよ…10億強であるらしいとはじき出してみた。毎年10億強が本間家の蔵に収められ、この米を大阪などに廻送し相場で利益を得たり、藩にばんばか献納するに使われたわけだ。

 さて…そろそろ本題に入ろう。
 貸金は現代換算するとこの数値だと…200億を超える…よね?ん?…ん?にひゃくおく超える…?

 …200億ってどんな金額なんだ?途方もなくないか?ん?…んんん?????

 こんな感じで、もう四六時中この計算式なんか間違ってないかと頭をひねる事一か月。
 どうしても腑に落ちない。なにせ、三代目光丘時代って本間家マックスパワーじゃないのよ。一番酷い…否、すごかった時代は明治で、光弥んの頃だろうと思われる。少なくとも六代目光美の頃の勢いは光丘時代の比じゃないだろうし、次の代四代目光道の勢いも先代光丘を凌ぐと書いてあるものが多い。実際数字から見てもそのようだ。

 いくら本間家がひどかった…じゃなかった、すごかったとはいえ、光丘時代で二百億は無いだろう、というか、ヤバすぎるだろう。おかしい。この数字どーっしてもおかしい。

 でも何度見ても佐藤センセの書籍にはそう書いてる。先生も携わっている酒田市史資料編5巻冒頭にもそのように書いてある。
 いやまて、でもそう書くからには根拠となる本間家文章があるはずである。原本がどっかにあるはずだ、そう、この資料編5巻のどこかに…!

 ということで、到底読むべきものではないこの資料をほぼ読むような作業に入る…。バカだ、そう思うがそれくらいどうしても腑に落ちない数字だったのだ。現代換算してみてますますそう思う。どーじんといえ、歴史なんて嘘っパッチの妄想上等とはいえ、やっぱり出来るだけ史実に近づきたい。

 そうして、資料が光美日記などに差し掛かる。これ、フツーに面白いな 笑 これ書籍化したら面白いだろうに本間家関係は大体光丘を説明するに終わるんだよなぁ。
 そんな感じで光弥んの時代のところまで差し掛かった時である。

 …なんか、見たことのある数字が並んでいるところを発見する。……!??!!??

 夜中だった。仕事も忙しい時期だったので、見間違いかと思った。でも、見間違いじゃなかった。

 ついに問題の原本である文章を発見したのだ。佐藤先生が先の金額が光丘一代に気付いた貸金金額として繰り返した数字だ。
 これは、本間家で資料を集めて残そうと考えた8代目、光弥で調べてまとめた資料が基になっている事を発見。光弥は真澄に資料整理を求めた人物でもあったはずである。戊辰戦争の資料の散逸を惜しみ、集めさせたのも光弥であるし、件の光丘文庫を作ったのもそもそもは光弥である。

 もうみつやん様様だ。

 彼が自ら纏めた先代らの財産金額というのが品目別に纏められた文章、というのが残っているのな。
 これが、そのまま資料編5巻に乗っている。

 *** *** ***
 
 さてあと問題は、この光弥の資料が間違っているか、あるいは資料編5巻に乗せた数字が間違っている可能性が残るだけである。

 …先に書いた佐藤先生の数字は  田地は米一万六千表 貸金金五万四千余り両、銀四万九千余り貫

  ところが、光弥の残した数字は   田地は米一万六千表 貸金金五万四千余り両、銀500匁 四万九千余り

 そう、そうなのだ!銀と銭(穴の開いた銅貨な)の数字がズレているのだ!!!!

 他の数値も見ている感じ…資料編5巻のこのみつやんの数字が誤字、という風には見えない。銀500目、となっている。目、というのは匁の別の言い方なのだ。

 大体銀が4万9千『貫』ってのがおかしいとは思っていた…金の額はそんなんでもないのだ。
 計算するに頭をひねることになるのは、いくら西方貿易をしているとはいえ東日本の豪商なのに金よりも圧倒的な銀の貸量だ。そんくらい、銀の重さが重すぎる。
 銀の数える単位は『貫』『匁』『分』というふうに重さなのだが、一般的には匁を使う。金の一両=4朱とはまた違う計算式になるのは、銀が重さで計っているという段階で察していただけると思うが…
 1貫=1000匁なんである。
 で、大体の換算が宝暦頃なので 1両=49匁 なのだ。
 一万貫越えてる段階で、ちょっとまて、銀どんだけ貸してるんだYO という事になるのである。

 うわー…
 うわー……
 知ってる、もう、何を読んでも光丘一代で築いた財産が米1万六千表、貸金 金五万四千両、銀一万九千貫…とか書いてあるの…。それを一所懸命現代価格に換算して 300億とか、230億とか書いてあるの…すごく知ってる……。叔父さん関係の書物にもそう書いてあるんだよね、叔父さん相場の神様だから投資関係のハウツー本の大体最初の方に出てくるんだが、それと一緒に本間家も説明されて有能な甥光丘の事が書いてあって以下略なんだ……。

 先生、先生の罪は深い…。

 でもまぁ桁一つ違うとはいえゼロ一個の差ではある。
 結局33億円という数字をはじいて少し安堵し(すでに金銭感覚がオカしくなってきているようだ)そのようにどーじんしには描いたのでした。

 さんじゅうさんおく もどーかと思うと今冷静になってちょっと思ってる。

 ちなみに一両を宝暦物価換算でおおよそ 六万六千円として計算しております。

 *** *** ***

 というわけで、歴史はなかなかおっかないところがあるのだとRHは知ったのでした…。
でも誰も変だと思わなかったのかねぇ?参照参照また参照を繰り返し、一つ間違ったことを送り出すとそれが通説となる世の中だ。ここは、一つまた違った通説を打って出ても悪くはないよねぇ

 何を読んでもこの数字が出てくるので、皆様方におかれましては…銭の数字と銀の数字がズレてしまっているらしいのだよと把握されていただきたいと願う次第であります。

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コメント 2

ナツル

3行で!
by ナツル (2015-03-06 00:10) 

rhone

コメントついてんのマジ気が付かなかったすまん兄さん

先生!
光丘の築いた財産の
額間違ってます!!

ということで三行な。
by rhone (2015-05-22 21:11) 

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