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庄内伝統食事情 [シェブロン県の話]

RHさんは最近地元レキシにすっかりアレされているわけですが、

今地元鶴岡生まれの時代・歴史小説家である藤沢周平センセイ全部読みにチャレンジ中です

で、ようやく10巻まできました。まだ半分も読んでないし、読み始めるきっかけになった探している話にもたどり着けていません。

 先日、時代物ものである 用心棒日月抄 を全シリーズ読み終わりました。これ、大変面白い。とりあえず藤沢センセイどっから読めばいいの、って聞かれたら今の所用心棒読めばいいよって答えようと思ったくらい。特に一番最初。構成がまずすごい。それでいて読んでめっちゃ面白い。それに比べると最後の狂剣は、これはこれですごい趣のある作風だけど謎解きが多すぎて結構頭がこんがらがる。とはいえ、用心棒シリーズは割とそういうちょっと複雑な構成を持っていてそれが面白いのだから多少、人物多いというのはしょうがないかな。

 個人的な好みを言うと、初期と云われるちょっと暗めの話が結構好きだったりします

 ま、それはいいとして。

 今回タイトルがタイトルなので藤沢周平せんせいの小説面白いはおいといて。

 この、東北の小藩モデルが荘内藩と云われる このシリーズから、庄内人として思う事をちょっと書きます。

*** *** ***

 藤沢センセイの作品には荘内藩モデルの架空藩『海坂藩』モノがあります。
 日月抄は、明確には海坂モノではない…というか、さる小藩、としか出てないけど藩主の名前や役職名からすると若干ウナサカ寄りだ。

 でも実際庄内にある寺が出てくる。

 そう、四作目の狂剣冒頭から登場する『般若寺』

 他、地元レキシを追っかけていると、ウナサカよりかは荘内藩寄りだなぁと思う描写が結構多いのでニヨニヨ出来る。
 江戸の屋敷の場所なども、わりと荘内藩の江戸下屋敷に近い。

 あと、食い物が完全に庄内 笑

*** *** ***

 ところがどっこい!
 地元歴史を調べていくと、この時代小説をだね、『歴史小説』として考えてしまうと頭をひねる事になる事案が出てくる。

 特に。特に!その、完全に庄内ですありがとうございました、という食についてに、だ!

 でもそこは問題ないのだ、何しろ用心棒日月抄、これレキシじゃない。ジダイさんである。時代小説で史実を多少はなぞるけど基本創作ジダイ小説。

 歴史に照らし合わせてオカシイところがあっても全然問題はない。

 具体的に述べると、庄内の食の歴史は結構古いまま今も残るものが多い、とはいえ!それでも遡って江戸初期から中期まではいかねぇんだ、その頃には無いはずのものがあるぞおおおお!

 ジダイモノなんだからそんな目くじら立ててはいけません、でも、背景的に真面目に検証してしまうと、これは忠臣蔵があった時代の少しあと…と言う事になるから完全に江戸前中期だ。

 ここから下の箇条書きは、レキシだったらアウトだろうという話です。ジダイさんなら問題はないので、庄内では今もこんなのが大体昔から食べられていますし今も旬なら(旬じゃないとないです)食べれますよ、という事でガッテンしてお進みください。 

 ・民田ナスの漬物 …RHさんちょっとした都合で荘内藩のお漬物事情を調べた事がありました。…違うんです、枝豆(だだちゃまめ)調べてたらたまたま赤カブ(温海カブ)の所にワクテカする話が書いてあって読みすすめてしまっただけなんですが

 江戸中期というと大体、荘内藩主的には忠寄~忠徳と考えていいでしょう。荘内入部初代酒井家3代目(ただしこれは忠次から数えて)の忠勝から数え、忠徳は9代目です。
 温海カブはこの頃から江戸に漬物用に納入するように、という古文書が残っているそうで、在来野菜種の歴史としては二番目に古いという。

 つまり。庄内特有の小丸ナスである民田ナスの歴史はあつみ赤カブ程ではない。
 日月抄の時代背景は忠徳よりも前の話になる。この時には、レキシ的にいうと民田ナスの存在は確証されておらず、これらを現在残る様に辛子漬にして当時食べていたかは…微妙なところだ。

 ・筍(孟宗竹) …作中孟宗竹と書いてあったかまでは忘れてしまったけれど、孟宗竹といえば京都料理です
 実は、孟宗竹を食用として庄内は今の産地、湯田川地区で栽培(栽培なんだよね)されるようになったのは…どう遡っても江戸後期から明治頃なのだ…。時代背景的には、ちゃんと調べてはいないけど…この食べるようとして栽培するようになりその方法を先方から習ったというから江戸の話ではあるまい。明治になってからだろう 
 実はそれまでは、筍は食べていたかもしれないが今の谷定や湯田川のような劇的な旨さのあるものではないのだ。あれは、今は定着したのかもしれないけれどちゃんと『栽培』された孟宗だから美味いのだという

 ・だだちゃまめ …とまで書いてあったか定かではないけど、とにかく枝豆。茶豆の選別優秀個体より分けが進んだのは調べがついています
 完全に明治の話です!ただ、宮城あるいは会津から新潟経由か、どちらかのルートで香茶豆種が入ってきているのは間違いない。でもやはり…江戸中期ではそこまでベタ誉めするほどの洗練されたものではなかった可能性が高い。

 ・こんにゃく …残念ながら山形県は消費量ナンバーワンのくせに生産量は低く、近年ようやく栽培するようになったくらいで割と生産北限といわれております。
 こんにゃくは、『江戸後期』頃にコンニャクイモを粉末化して売るという方法が発案されたため、爆発的に広がったとされる(航路で拡散したものと思うが、発祥は水戸…茨城だったはずだ) 
 もちろん、京文化直結(北前船で酒田湊が京直結でした)だったので早いうちにこんにゃくは入荷してきているだろう。食文化輸入はすごくあったに違いない。だが、それは!酒田の話で鶴岡まで酒田の『流行』が流れたかはなかなか微妙なのである!酒田に比べて鶴岡は武士の町…いくら藩主が公家に理解あったとはいえ(あったのは忠徳の子供の忠器だし)京料理が鶴岡民まで届いただろうか?
 ましてや、時代背景的には光丘以前だから(←)めっちゃ貧乏よ、荘内藩(笑)神田大黒云われるのは江戸中期から後期の話である

 ・庄内に限った物じゃないけど…『鱈のほっぺ肉乾物』
 これな、これ…松前開発が盛んにならないと出現しないんじゃあるまいか…と思える。
 江戸中期っていうとようやく西回り航路が開かれ、そっからようやく幕府が松前の資源に目ぇつけ始めて昆布が爆発的に日本国中を圧巻するその直前くらいだと思うんだ…実は昆布が庶民の口に入る様になるのって、結構遅い。

 あー、でも鱈って江戸時代でも日本海で捕れたんだろうか?だとしたら乾物は存在するし、それが西回り航路で江戸にあってもおかしくはないなぁ…。でも基本沢山取れるようになったらから喉とほっぺは切り落として別に乾物にしたんじゃないかと思うのだけどどうなのだろう?ええと、この問題はカマボコ生産地を調べなければならない訳だな…太平洋側でもいいのか…?宮城のササカマボコの歴史なんかを調べる必要性がある…と。

 ・醤油の実 …庄内オンリーではないけれど、北前船の出入りするところで作られているものと見れる。ところで、最近友人から頂いた本に良いデータがありまして…これ、各家で手作り発酵させて食べていた、とウィキセンセイにも書いてありますが。庄内の四次元ポケット事本間家でも独自醤油の実、作ってますね…何時から自家製にしたのやら。
 本来醤油屋で搾りかすのカスから作った副産物だったのだが、これが美味しすぎるという事で最初っから醤油のみとして作られるようになったという。
 ところで、庄内には味噌屋と醤油屋が少ない。というか基本味噌は自分ちで作るものだった記憶もあるけど…(昔は作っていたよウチも)醤油屋は海側より食べ物に乏しかった山の方が多い傾向があるそうだ
 庄内、食い物は海も山もあったので発酵食品や発酵食品添加物による味付けがあまり必要ではなく、そういう都合少なかったのではという憶測は当たっているように思う。
 醤油の実は味噌と同じで、もっぱら商家で自家製していたものらしい。
 はたしていつ頃から作られるようになったのか…これは昔からあったのかもしれない、と思う。
 なぜなら、荘内入部酒井家はもともとは三川武士でお味噌の国の人である。今もってその名残は鶴岡に色濃く、鶴岡の食文化的には『なんでもかんでも味噌汁にしてすする』というイメージが強い(私は酒田人)
 味噌は自分家で作る、というのが昔からならば、醤油は醤油屋で作るとしても醤油の実という発酵食品程度は各ご家庭で作ってた可能性は大である。

*** *** ***

 他にもあった感じがするけど時間が押してきたのでとりあえずこんなカンジで。

 あ、魚については昔から変わってないと思われます 笑 小鯛(一般的にはアマダイの事だそうだ)の話は今も…今はどうかなぁ、漁獲量のモンダイがあるけど、とりあえず昭和年代頃まではガチだった模様。

 さて最後に何が言いたいのかというのを。

 日月抄はジダイな小説であってレキシモノではない。
 藤沢センセイはその線引きが厳しい方とお見受けするので、完全に時代モノと割り切って地元の食べ物の話を出し田に違いないと思っている。だから、以上の事は全くいちゃもんではないのだ。念を押す。ただ、レキシ的に見るとこうだよ、と云う話です。 

 では問題は何か。 

 他の作家さんでどうにもレキシに寄った小説を書いた場合、
 藤沢センセイが扱っていたから当然と同じように荘内藩の昔からのソゥルフードとして
 以上のものを江戸時代に描くのにはチョットマッテ!

 しなければならない…と言う事である 

 うん…とりあえず孟宗がまず引っかかるね…戊辰の時あったかなぁ…微妙だなぁ…ギリギリかなぁ…と思っている。
 私の予想では戊辰戦争んトキはまだ谷定も湯田川も孟宗作ってな気がビンビンにするねぇ…

 ただ、筍料理は結構昔から食べている文献は古い本間家のアレから拾える。本間家基本質素メシだから(たとえ正月でもだ)正月早々山菜とか食ってる始末だけど、冬の時期に筍ッって事は何か保存食的なものだと思うんだけど…違うのかな?どうなんだろう。昔って筍どうやって保存したんだろうねぇ、やっぱり茹でて塩漬けかな?

 食文化って、結構昔の事は分からない事だらけで追えない事が多い。
 こんなに身近なのにねぇ、一昔前、何を食べていたのかを追いかけるのが難しいのだ。それだけに、レキシ資料開くだけでは食文化の事は分からない事が多く、全く別の所からアプローチして調べなければならない。
 それだけに、結構テキトー書かれているものは少なくないなぁと思う。
 まぁジダイさんなら問題ないんだろうけど…。
 だからこそ、ジダイ小説からレキシ小説参照してはならない。それだけはチョットマッテ!
 時代は簡単にひっくり返るし、正しい事が伝言ゲームのごとく上手く先には伝わって行かない。故に…

 地元のレキシ小説と銘打ってある奴……藤沢文学から安易に抜粋して書いてないか?と思う事がちょっとある。
 いや、ジダイ小説だとしてもだ。
 ちょっと藤沢リスペクトが多すぎるのに気づいてしまってうおおお…ってなってると思いねぇ 


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ここ数年祭りってる日に休めた試しなし [シェブロン県の話]

ジモトの話になるのか?なるのか…
この前の新刊的な画像、と思ったけど中の方のスキャンが進んでないので、とりあえず
ツイッターに上げた画像を張り付けてお茶を濁す方向で

光某4.png


 表紙詐欺なのは、殿さまだからです
 真面目にネタをページ数に収めるのが不可能と察し、急遽上下あるいは上中下編成になった為、
忠徳、描きました。もしこれが3巻編成になったら、私の趣味と好みの問題から次の表紙は巴門になるでしょうな…

 酒井家の方本気で調べるとなると鶴岡シティに乗り込まなければ見れない資料が多すぎて、今乗り込むべきか、若干悩んでいる…。毎日行ってる町とはいえ、休日も鶴岡行って図書館入りびたりはどうなの。昼休みにちょっといって本をチョイス出来るとは思えない(結構吟味するタイプ)
 返却くらいなら出来るか…。ぬぬぅ…

*** *** ***

 次、お題の通り。酒田まつり(ひらがなが正しいそうだ)の本祭りの日に休みになったことがこのところ、ありませんな…ありません。
 理由ははっきりしています……締日だから絶対休みにならんのです……

前の職の時は余裕でイケてたんだから、もっとはやく地元にすっころんでおきなよ…(そして前の前の職場でも休みだったことがほぼなく、いつもテレビ中継で祭りを見ていた人)(締日はあんまり関係なかったはずなんだがなぁ…)

 あと、実は前住んでたところが中町だったため、祭りになると うるさい という認識が極めて大きく…目の前に住んでいるからむしろ近づかない、という時期が一時期あったりしましたね…。

 祭りに行けないので、とりあえず祭りネタでマンガでも描いてやれ、
と書き出しはいいけど途中仕事で忙しい&体調不良で祭り期間中に挙げることが適いませんでした…

酒田1.png
 
解説。酒田まつり、事 山王祭は戦時も欠かさず行われた(ある程度は自粛してつづけたんだそうだ)お祭りであり、上山王と下山王の二社同時開催のお祭りである。
 上山王がどこにあるのか実は分からん人もいるのかもしれない。かくいう私も大体このあたり、くらいしかよくわかっていなかった人だ!
 上山王は酒田駅から近い方。下山王が日和山の上の奴だ。

 酒田は
上町…(城下町、鶴岡の酒井家は酒田の亀ヶ崎城も例外的に持っていて、酒田には城代が置かれている。この亀ヶ崎城下町が上町で、有力商家は伊藤さんである)
下町…(湊町、本町通りの36人衆が収める商業都市の方。もちろん豪商が多い。本間家もこっち)
 の二つに大体わかれていて、仲が悪いのかというとまぁ、管轄が違う…というか。気質が鶴岡寄りか自由都市寄りか、みたいな感じだろうか。
 社を二つ、あるいは三つに分けて祀ってあるのはよくあることの様だけど、ええと…このあたり調べたんだけどまだ自分の知識に出来てないな、また時間ある時勉強しなおす。

 下町は火事が多くよくよく燃えます…。
 そんなわけで、下山王は少なくとも2回燃えて焼失しており、現存しているのは本間光丘(三代目)が自力で立て直したものになります。これを立て直したとき、まだあの山はただの『砂山』であり、松なども生えない本当にただの砂山でした。
 光丘が立て直した下山王は総漆塗りで、当時はたいそう黒光りして目立つ建物だったろうと想像されております。しかも松林も何もないので遠くからもキラキラ見えた事だろう…。

 あの山が日和山になったのは、光丘が勧進した植林事業が軌道に乗り、4代目光道の時代になって防砂の効き目が実感されるようになってから。
 湊に入る船をあの松が生え出した砂山の上から皆が見る様子から、日和山となずけられたそうな。

 光丘がハデな社を立てたのは、それを目当てに外国(この場合は藩の外を意味するから庄内外から、という意味)から多くの人を呼び、人を呼ぶことで金を落とさせ、経済を回す事で景気をよくするという観光事業の目的だと云われております。
 山王祭に山車を出してハデに執り行う様あれこれやったのも、これらと同じ意味があって光丘が推奨した事と云われてます。

 なので、個人的にはあの水色とピンクの獅子頭はどーなの と思ったけど
 …酒田ソウル的には何ら間違ってはいなかった…と…。

 あと、おまけ。
酒田2.png


以後、あののんを見ても中の人に叔父さんを期待しないでください。しないでください!!!
もしぇのんの中の人はおまけってこととで外衛(五代目)
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歴史は疑う所から入るべし [シェブロン県の話]

と、お知りあいの方からご教授された通り、歴史ものは結構見事に通説や教科書に至るまで間違いだらけである。

なぜなら、…人類は過去を正確に知ることができないからだ。一秒前のの過去から、何が正しかったかなど誰もかれも知りえはしない。そんな科学や哲学を論じるまでもなく、考古学は過去の遺物から最終的に『妄想』を繰り広げるものであり、それがリアリティを伴った想像であり、妄想であるからこそなんかこう、ロマン的な感じに浸れるんだろう。

 というわけで歴史はまず疑う所からはじめない事には始まらない。一冊物の本を読んで、その内容だけで事をうのみにはできないし、確実と残されている書物さえ、本当に当時をそのままそっくり書き残したものではあるまい。色々な『可能性』が想像できる。その想像の振れ幅だけ過去に向けた真実は枝分かれをし、その分輪郭はぼやけてあいまいなものだ。

 そこをちゃんと念頭に置き、言い聞かせるようにして歴史ジャンルに足を突っ込んでみました。
 そのため、第一に調べている本間家関係も伝えるモノの大半は『善きもの』とすることをまず、疑わない事には始まらない。そりゃ、好きで調べてるんだから『善き』ものであることは喜ばしいし歓迎したい所ではある。でも本当にそうだったかなんてもはや誰にもわからないんだ。

 悪い存在としての一面を暴くことになったとしても、そしてそういう側面を書くことになっても構うまい…
 そんな感じで日々得た情報をもとに、彼らの居た『過去』を妄想する日々でございます。

 さてそれで今回はどういう話をしたいかというと どーじんし の方でも発行してこっそり書いた通りなんですが…
 古今東西なにからなにまで、ものの見事に間違って伝えられている事をいい加減、ここで正してみてもよいのではないかという事です。

 具体的に言うと、シェブロン県酒田の豪商、豪農、と書いてある場合もある。本間家三代目である 本間光丘が一代のうちに築いたという富についての 数字だ。

*** *** ***

本間家についての現代人も無理なく読める資料の第一資料は、酒田市史資料編の5巻と6巻だろう。こちらは本間家が蓄積魔の性格を持っているためがっつり残っている当時(江戸時代中期)からの資料という資料を、抜粋してまとめた資料である。酒田市史において本間家とは分厚い資料本1冊と半分があてられるくらいに『酒田の本間か、本間の酒田か』なのであった。
 あと、もう一つの理由として酒田は江戸並に火事が多く浜風強い地域柄一度萌えると類焼被害がひどいのだ。そういう都合、資料の多くが火事で燃えてしまって存在しない中、現在の旧本間家だけは建設されて後一度も類焼していないし地震にもびくともせずに残っていたため、本間家の資料が酒田市史をまとめるに非常に役立っているという事でもある。
 この酒田市史資料編5巻は 昭和46年に発刊されている。
 
 以下敬称略をご容赦いただきたい。

 斎藤美澄が本間家の蔵に出入りし、資料を整理しつつ明治時代に依頼されて飽海郡史を書いている。斎藤美澄は他荘内藩関係でも色々と書いておられる。
 この方が本間家の所持する書類を整理したおかげで今ある資料は成り立っているといっても過言ではないのだろう。酒田市史資料編5を読むとそれがよぉくわかる。
 ところでさすがにこの分厚い市史がおいそれ多くの書架にあるわけがない。まぁ、あって庄内いちえんの学校関係、役所、図書館などに収められたものと思われる。で、私はそれが売りに出されているのを見て面倒じゃ、買ってしまえと今一冊手元にあるわけですが…。

 それは一地方史を攻めているから出来る事であり、例えば、全国的な何かしらの資料をまとめた本を一冊刊行する事になった出版社は、一ページの記事を書くためにいったいどこから資料を得るか?

 さてそれで昭和47年。酒田市にある光丘文庫という古書の類を大切に保管している図書館がございます。こちらの館長をも務めていらっしゃった佐藤三郎が…昭和47年刊行で『酒田の本間家』という比較的手に取りやすいサイズの本を出していらっしゃる。
 この佐藤三郎は酒田市史編纂にも関わっている第一人者でございます。

 こちらの本も真っ先に手に入れてあるので私の手元にあるわけですが、この佐藤さんの文体は非常に読みやすくかなりの書籍でお世話になっております。
 しかし鶴岡(殿が居る方の町)の歴史本なども多くが斎藤美澄と佐藤三郎の手によるものが多く(笑)…まぁ、そういう事から鶴岡側の書籍を読んでみても若干酒田寄りの編纂になっているような気もしないでもないな、と思ったりします…。
 それはさておきこの『酒田の本間家』という本は、非常に本間家というのを知るのに良い資料の縮図となっているのだ。これ一冊読めば大体のことは把握できるといって過言ではないだろう。

 というわけで間違いなく世の酒田を、あるいは本間家を紹介する本において参照として使われているのはこちらの本なのです。その決定的な事実が、
 三代目光丘が一代のうちに築いた財の金額がいくらだったか、というくだりでよーーーーくわかる。

*** *** ***

 先だって分かり易く本間家、というコンセプトでどーじんしを出しているわたくし目は、冒頭解説の為の3ページに収める四コマ漫画でおおよそ…1か月くらい…躓いていた。

 金銀の価値や米の物価を当時の物価指数をエックス代入して現代にしてどれくらいか、というどんぶりそろばんをはじいていたのでした。そのまま資料のまま金銀で書いたって、わかるわけがない。
 現代の価値で説明しなきゃ わかるはずがない。まず俺がよくわからん。実感がわかない。

 田地は米一万六千表
貸金金五万四千余り両、銀四万九千余り貫… わからないだろう?

 というわけでまず金と銀について調べ、相場を調べ、数え方の単位を調べるわけです。

 江戸時代において、金は東日本で使われ銀は主に西日本で使われていました。裏日本まで銀です。つまり、荘内藩のおとなりである新潟までは銀であるらしい…というか、荘内は裏日本所属なのかどうなのか、なんとなく含まれている気もするが、西方貿易『西回り航路』の弁財天(北前船)が活躍し始める頃なので、もしかすると銀なのかもしれない。…少なくとも酒田では。
 でも殿様に収めているのは資料の上ではどれも金なので、まぁ、金なんでしょう。

 金というのはよいうするに 大判小判の黄金色のアレの事で大判で小判8枚分、小判一枚が『一両』。
 江戸時代は今の様な10進法の銭勘定ではございませんで、一両の四分の一の価値ものが『1分』。このあたりにややこしい事情は知ってる。なぜって、創作小説で使ったからだよ(笑)国が違えば通貨も違うだろう、という事で西国は大体江戸時代みたいなに複雑な貨幣を使わせ、南国が10進法のパル貨幣であるからレートがどーのこーのという設定を(以下略)

 対し、銀は両とは数えない。匁で数えます。重量換算なのです。そのあたりのなぜナニはここで詳しくやると脱線するから、知りたい人は自分で調べましょう。今はいい時代です、比較的まともな答えがすぐネットに落ちています。マニアックな情報ほどネットの網からは抜け落ちるし、精査がテキトーで信用できませんが 笑

 そうやって計算機片手に計算する。数学は、得意教科じゃないけど嫌いじゃないし電卓は仕事の都合叩くので扱いには慣れている。

 田地の面積については米の取れ高で書いてあるからちょっと、計算するのが難しい。昔の田んぼでコメが1反からどれだけとれたのか、とかから調べないといけないじゃない。なので、当時のコメの物価を調べておおそよ…10億強であるらしいとはじき出してみた。毎年10億強が本間家の蔵に収められ、この米を大阪などに廻送し相場で利益を得たり、藩にばんばか献納するに使われたわけだ。

 さて…そろそろ本題に入ろう。
 貸金は現代換算するとこの数値だと…200億を超える…よね?ん?…ん?にひゃくおく超える…?

 …200億ってどんな金額なんだ?途方もなくないか?ん?…んんん?????

 こんな感じで、もう四六時中この計算式なんか間違ってないかと頭をひねる事一か月。
 どうしても腑に落ちない。なにせ、三代目光丘時代って本間家マックスパワーじゃないのよ。一番酷い…否、すごかった時代は明治で、光弥んの頃だろうと思われる。少なくとも六代目光美の頃の勢いは光丘時代の比じゃないだろうし、次の代四代目光道の勢いも先代光丘を凌ぐと書いてあるものが多い。実際数字から見てもそのようだ。

 いくら本間家がひどかった…じゃなかった、すごかったとはいえ、光丘時代で二百億は無いだろう、というか、ヤバすぎるだろう。おかしい。この数字どーっしてもおかしい。

 でも何度見ても佐藤センセの書籍にはそう書いてる。先生も携わっている酒田市史資料編5巻冒頭にもそのように書いてある。
 いやまて、でもそう書くからには根拠となる本間家文章があるはずである。原本がどっかにあるはずだ、そう、この資料編5巻のどこかに…!

 ということで、到底読むべきものではないこの資料をほぼ読むような作業に入る…。バカだ、そう思うがそれくらいどうしても腑に落ちない数字だったのだ。現代換算してみてますますそう思う。どーじんといえ、歴史なんて嘘っパッチの妄想上等とはいえ、やっぱり出来るだけ史実に近づきたい。

 そうして、資料が光美日記などに差し掛かる。これ、フツーに面白いな 笑 これ書籍化したら面白いだろうに本間家関係は大体光丘を説明するに終わるんだよなぁ。
 そんな感じで光弥んの時代のところまで差し掛かった時である。

 …なんか、見たことのある数字が並んでいるところを発見する。……!??!!??

 夜中だった。仕事も忙しい時期だったので、見間違いかと思った。でも、見間違いじゃなかった。

 ついに問題の原本である文章を発見したのだ。佐藤先生が先の金額が光丘一代に気付いた貸金金額として繰り返した数字だ。
 これは、本間家で資料を集めて残そうと考えた8代目、光弥で調べてまとめた資料が基になっている事を発見。光弥は真澄に資料整理を求めた人物でもあったはずである。戊辰戦争の資料の散逸を惜しみ、集めさせたのも光弥であるし、件の光丘文庫を作ったのもそもそもは光弥である。

 もうみつやん様様だ。

 彼が自ら纏めた先代らの財産金額というのが品目別に纏められた文章、というのが残っているのな。
 これが、そのまま資料編5巻に乗っている。

 *** *** ***
 
 さてあと問題は、この光弥の資料が間違っているか、あるいは資料編5巻に乗せた数字が間違っている可能性が残るだけである。

 …先に書いた佐藤先生の数字は  田地は米一万六千表 貸金金五万四千余り両、銀四万九千余り貫

  ところが、光弥の残した数字は   田地は米一万六千表 貸金金五万四千余り両、銀500匁 四万九千余り

 そう、そうなのだ!銀と銭(穴の開いた銅貨な)の数字がズレているのだ!!!!

 他の数値も見ている感じ…資料編5巻のこのみつやんの数字が誤字、という風には見えない。銀500目、となっている。目、というのは匁の別の言い方なのだ。

 大体銀が4万9千『貫』ってのがおかしいとは思っていた…金の額はそんなんでもないのだ。
 計算するに頭をひねることになるのは、いくら西方貿易をしているとはいえ東日本の豪商なのに金よりも圧倒的な銀の貸量だ。そんくらい、銀の重さが重すぎる。
 銀の数える単位は『貫』『匁』『分』というふうに重さなのだが、一般的には匁を使う。金の一両=4朱とはまた違う計算式になるのは、銀が重さで計っているという段階で察していただけると思うが…
 1貫=1000匁なんである。
 で、大体の換算が宝暦頃なので 1両=49匁 なのだ。
 一万貫越えてる段階で、ちょっとまて、銀どんだけ貸してるんだYO という事になるのである。

 うわー…
 うわー……
 知ってる、もう、何を読んでも光丘一代で築いた財産が米1万六千表、貸金 金五万四千両、銀一万九千貫…とか書いてあるの…。それを一所懸命現代価格に換算して 300億とか、230億とか書いてあるの…すごく知ってる……。叔父さん関係の書物にもそう書いてあるんだよね、叔父さん相場の神様だから投資関係のハウツー本の大体最初の方に出てくるんだが、それと一緒に本間家も説明されて有能な甥光丘の事が書いてあって以下略なんだ……。

 先生、先生の罪は深い…。

 でもまぁ桁一つ違うとはいえゼロ一個の差ではある。
 結局33億円という数字をはじいて少し安堵し(すでに金銭感覚がオカしくなってきているようだ)そのようにどーじんしには描いたのでした。

 さんじゅうさんおく もどーかと思うと今冷静になってちょっと思ってる。

 ちなみに一両を宝暦物価換算でおおよそ 六万六千円として計算しております。

 *** *** ***

 というわけで、歴史はなかなかおっかないところがあるのだとRHは知ったのでした…。
でも誰も変だと思わなかったのかねぇ?参照参照また参照を繰り返し、一つ間違ったことを送り出すとそれが通説となる世の中だ。ここは、一つまた違った通説を打って出ても悪くはないよねぇ

 何を読んでもこの数字が出てくるので、皆様方におかれましては…銭の数字と銀の数字がズレてしまっているらしいのだよと把握されていただきたいと願う次第であります。

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艦の次は刀らしい [シェブロン県の話]

どっちかっていうとデータの方に萌えるタイプであるため、興味がないと言ったらウソになるけど手に出すつもりはさらさらない…某刀擬人化ゲーム。

 まず、何より課金ありゲーじゃないか。いや、課金せずとも楽しめるには楽しめるらしいけど。

 ブームになるのはいいことだ。それで歴史ジャンルが少しでもこう、盛り上がってくれれば歴史系に今身を置く私としては嬉しい。けど別にソレじゃなくてもいいw

*** *** ***

 さてそれで刀ブーム的なものは果たしてくるのか。女子は男子の艦コレブームの様に実際の日本刀などを拝みたい、どういうものなのかもっと知りたい!という流れに乗ってこれるものなのか。どうなんだ?

 無理なんじゃないのか(と、個人的には思っている)

 無理言わないでブームが来たらいいよね!という事で 東北地方でありながら国宝級、重要文化財級の日本刀を多く所持する我らが荘内藩とかにもスポット当たるといいよね!

 刀といえば、昔殿様ん家から(この場合の殿様とは、荘内藩の殿様を指しており今現在も日本で唯一殿様である『酒井』さんちである)日本刀盗み出した連中がいたらしいという話を、郷土本を読み漁る中で見たことがある。
 私、地元にハマってはいるけど全部手を広げると大変なことになるため、今現在もある程度照準を絞っております。本間家関連を重点的に調べているため…このあたりの記事展開をよく覚えていない。

 でも、日本刀が戦後没収され、捨てられ、鋳つぶされずに済んだ背景に本間家関係者が絡んでいるのは知っている。
 そんな都合、そのうちこのあたりも調べていろいろ読んでみよう…とは思っていたけど大正・昭和の話になっちゃうので後回しにしているのよね…(あえて江戸中期から明治まで、と標準絞ってる)

 今日はまたどうしてそんな話かというとですね。

 明日の日付の荘内日報という、地方紙があるんですがこちらのトップにですね。

 殿様ん家から盗まれていた重要文化財である日本刀が大阪で見つかった、というトップ記事だったからです。

 ああそうそう、盗まれたらしいんだよね。それがここの所政府の文化庁の所在確認調査であれこれ騒がれていて…そして俗世でも刀剣ブームらしくて。

 そういえば、鶴岡は国宝級の刀が二振りありますよねぇ。しかし国宝の日本刀は100振り近くあるそうで、まぁそう思えばたったの二振りと言えるのかもしれない。

 ツイッターで回ってきたリンクで知って、最近つい読み込んでしまったサイトさん参照しています
 こちらです http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/
 面白いです

 そこをいろいろ見てみるとへぇ、国宝だけど個人所有がほとんどなんだと驚く。

 殿様ん家から29年も前に盗まれていた重要文化財の刀は『備州長船住元重』だそうで、なんでも見返り元重といわれるほど『切られた人が後ろを振り返るまで切られたことに気が付かない』程の業物だそうです。

 件のサイトで得たにわか知識を振り回しますと、茎が折り返されている。
 鎌倉時代の作という事なので、太刀だったものを刀としてええと、削るのなんていうんだっけ忘れたけど、こう太刀をビフォーアフターして短くして刀にしてしまう、というのがよくあるんだそうです。
 そうしてしまうに鞘の中にある刀の『茎』に彫ってある銘が削れてしまうため、これを残すために折り返す場合があるそうだ。

 写真で見ると見事に折り返してある。

 そのうえ、忠篤(ただずみ 戊辰戦争時の酒井家藩主。当時めっちゃ若かった。個人的に通称ズミ)の名が彫ってある。

 戊辰戦争の功績を評価して菅ちゃん(菅実秀 当時の藩士。スガではない。スゲである)に送ったけどいろいろあって殿様ん家に戻ってきたものなんだそうだ。
 
 こう、刀って鞘に収まった状態で展示されていることが多くて、それはそれでいいんですが…

 やっぱり刃の部分とか、銘とかも見たいよね…

 致道館さんはいつか名刀分解展とかやりませんかね… 笑 本間美術館でもいい

*** *** ***

 さてさてそう言う事で、後回しにしていましたが本間家がどのよーに日本刀に関わったか、ちゃんと資料手元にあるんだからもう一度読みましょう。

 はい…平成に入っていろいろ問題も起こしていた日本美術刀剣保存協会の二代目会長を務めているのが本間順治さんですね。戦後まもなくの話です。
 この方は戊辰戦争時、秋田遠征に行った服部弥惣の孫ですね。
 服部さんは古刀鑑定において庄内地方で右に出るものがいなかったと語り継がれておるそうです。
 服部さんは武士なのでもちろん鶴岡の人ですが、本間家の8代目光弥(かってに通称 みつやん)の妹が婿養子として服部家の次男を迎えている。そのため孫は本間の性となっているわけです。

 (※ 庄内地方、もとい 荘内藩は殿様が住み、武士が集う『鶴岡』と 東北一の港を持つ自由都市『酒田』の二つの面を持っています。酒田にはもちろん商人が多い 本間家は都合武士だけど商人)
 
 さて戊辰戦争後、つまり江戸時代が終わり明治となった世の話です。

 たくさんの武士が武士じゃなくなったわけですが、何しろ戊辰戦争で一番最後まで戦っていたのが荘内藩です。殿様が今現在も残ってしまっている位、ぶっちゃけ超保守的な文化な訳ですよ。最後の武士の国といっても多分、過言ではないでしょう。ヘタに戊辰戦争で連戦連勝キメてしまってたり、他がすでに戦う国としての姿を失っている中で唯一ちゃんと武士が生きてて、いざ戦争になった時ちゃんと強かったっていう…。
 しかもそれは時代錯誤なのではなく、ちゃんとその時の最先端を取り入れての強さだった。金の力は強いのねん…。

 そんな荘内藩も大泉藩になっていたわけですが…それはさておき廃刀令が出て鶴岡の武士が持っていた刀は不要となり、また禄がなくなって帰農しなきゃならなくて、貧しさに耐え兼ねついに手放し様になってしまった。
 どこに売るかっていうと商人の町、酒田に売りに出すわけだけど…威張り散らしていた武士と商人の軋轢なんかがありまして酒田商人、鶴岡の刀等を二束三文で買い叩いたそうだ。(まぁ、酒田に売りに来られても以後刀は誰も持たない時代だから不要の長物、値がつかないのは当然といえば当然なんだけど)
 これは双方悪い処があるのでなんともいえないけれど、以後それで鶴岡酒田の仲が悪いなどと言われております。

 この二束三文で買い叩かれた刀の中に、良いものがあるのと見抜いたのが鶴岡士族(武士)の服部弥惣。
 そりゃぁあるだろうよ。
 でもその当時、刀の良しあしというのは今の様に確立しているものではないから、銘品としての目利きとしての先見性として服部さんはすごいのだと思う。
 そして服部さんは本間家(時代的に言えば6代目の本間光美だろう)に、良い刀は高く買い上げるように働きかけていたそうだ。光美といえば光丘再来といわれる人物で、都合早く隠居したけどご隠居様としてのパワーは計り知れない人です 笑
 こういう事に極めて理解のある人だったので、進めを受けて二千振り以上の業物を集めたといいます。

 …高値で買い取ったとに二千振り以上とかマジかと思うかもしれませんが 日本一の地主なめちゃいけません。そんくらい多分、余裕だったんでしょう…

 これを眠らせておくのではなく、ちゃんと管理もしていたようです。これだけの刀をどうするつもりだったのか、その後戦争が起こって需要が出ることを予期していたというのなら光美の先見眼は三代目並というしかない。

 光美がなくなり7代目光輝の一人息子、八代目光弥の時代を経て9代目光正の時代についに戦争が激化していくわけです。
 まぁこの時政府へ向けた献金額が 藩時代の非じゃねぇったら 笑 
 剣刀の需要が高まり、本間家は集めた業物を提供することを決め、東京の三越でほしい人に かなりの格安で 譲った様だ。その売上金一万4千円程はそのまま陸軍に献納したそうである。
 様だ、ではよくわからないから計算してみよう。

 昭和12年ころの話の様なので…と、昭和12年の物価指数が見つからねぇ 笑 物価指数わからないと計算のしようがねぇなぁ…まぁいい、どんぶり勘定でいこう。
 仕方がないので昭和初期頃の物価からかんがみるにざっと、この売上金を2万5千万円程としてみる。
 それを、この時放出した刀剣が大体1000振り程という事で単純に割ってみよう。

 一振りたったの2万5千円!!!
 コスプレ用の模造刀かよ!!!!!

 さっすが本間家ェ…… 売上上げるつもりなくて全部陸軍に献納した通りである…。
 今じゃ一振り200万とかすんだろ…そのくらいの服部さんが見込んだ業物だよぅ…。

*** *** ***

 とまぁこのように戦争によって散逸した日本刀。
 戦後、GHQはこの日本刀をひっじょーにおそれまくった経緯があるそうです。とにかくこの謎の切れる恐ろしい刀を亡きものにしようと刀狩りを始めた。これにより失われた刀もまた数多いという。

 それを、伝統ある作品、美術品として保護する活動をしたのが…服部さんの孫、本間順治さんというわけです。二代目会長になった通りであり、この人の働きがなければ今の日本刀は無かったくらいのレベルでは日本刀はひん死の憂き目にあっていたという。

 一方でこの順治さんの弟さんは、本間家9代目が病死した都合後継人指定された祐介さんとのこと。

 すげぇじゃん、結構関係してんじゃん…。なんか結構運動していた人だったよな、と思ってたけど結構どころじゃなかった 笑 
 第八軍憲兵指令官のキャドウェル大佐を説き伏せ、日本刀は怖いもんじゃないよ、すごいんですよ、きれいなんですよ、1000年近く昔のものなのに今も形を保っているんですよ、かつては命と同等の価値があったんですよ~、すごい希少なもので、そう簡単に作れるものじゃないんですよ~ 的に説き伏せた結果。

 大佐を逆に愛刀家の一人にすることに成功。懐柔作戦大成!!!!

 こうしてGHQによって赤羽に集められていたという多くの日本刀が鋳つぶされ、海に沈まずに済んだのだそうだ。

 *** *** ***

 今その日本美術刀剣保存会は内部腐敗が激しいらしい
 …それで散逸した国宝級、重要文化財級も少なくないという事がこのたびの文化庁の調査で明るみに出ているわけですよね?

 これを機にスポットライト浴びて、刀剣の、歴史の方にもスポットあたるといいな~いいなまじで~
 



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そこに叔父さんは居ません [シェブロン県の話]

いってきた…いってきたよ…
でもなんかかなり多昔に一度だけ来た記憶がちょっとよみがえってきたんだけど本当に何時だったか覚えていない…

 旧本間家、行ってきました。

というか、その前に致道館に行って、致道博物館に行きました。あれ、なんかこの違い良くわかって無かったんじゃない俺?
いや、建物はこっちに在るのに致道…博物館はこっち…?っていうちょっとした疑問はあったんですが、

今回ようやくすっきりしました。ああ、なるほど 笑

 しりゅーさんすいません、そしていささん、引っ張ってってすいませんw
 でもこれですっきりしたし、あそこ無料って知ったのでさもあらん(←)

 *** *** ***

 そんなわけで庄内三昧という事で(地元民なのにね) 改めて、理解を得て、興味を持ってからのジモト観光は楽しい…!
 致道館、ここは間違いなく二回目に来たんだけど中の資料マトモに読んで無かったよね。そして今見ると余計な事が色々解って楽し過ぎる。
 地図の見せ方!!!!ってなってた。そうだね、もう少し見やすいケースにしてほしいw
 光丘文庫のケースは地図も見やすくて良かったよ。
 何時の時代の地図であるのか、というのも併記してもらえると尚いいのに。そこんところも光丘文庫でやってた地図展ではちゃんと何時の時代のものか書いてあって親切であった。博物館的な意味合いで展示するならそこはやっぱ大事なのでは…!!

 そんな致道館、とか書いておいてそも、致道館とはなんぞや!?

 という人の為にまず説明をしなければならないわけですが、致道館というのは藩校でありまして、出来たのが江戸時代中期。江戸時代、地方は領主である藩主が治めるわけですが、藩を運営する武士達の教育の場として作られたのが藩校であり、荘内藩ではこれを致道館といって最初、鶴岡の現在における日吉町に置いていました。
 作るように働きかけたのが白井矢太夫で、よっしゃ作るか!ってGOサイン出した殿様が酒井忠徳。タダアリと読みます。そうとわかってはいるんですが、私の脳裏ではこの九代目(あるいは7代目)酒井殿様の事をトクちゃんや徳さんと呼んでいる事が多いようですどうでもいい。

 白井矢太夫は典型的な酒井家家臣武家のヒトなので『金儲けは武士のする事に在らず』という考えを持っています。ようするに、金儲けイコール悪事なのです。商人がそれをする事すらアサマシイと考えている事が多く、ましてや武士が利殖行為を行う事は言語道断!心がひん曲がっている!という価値観であったりします。
 そこまで言わなくても…と思うかもしれませんが、それが当時の武士のナウなんだからしょうがない。
 あと、譜代大名である酒井家の家臣は特にそう言う考え方が強い傾向にあったらしい。

 ゆえに、白井時代に起用されてついに武士になった本間家の人、つまり三代目の光丘(ミツオカ、あるいはコーキュー)はこの白井派閥からは徹底的に目の敵にされていた様である。

 まぁそんなわけで、致道館は本間家関係ないのかっていうと、そうでもない 笑

 光丘は白井派から徹底的にいびられて遠ざけられてしまったわけなんだが、その後光丘から四代目の光道(ミツミチ、あるいはコードー。実際には光武、あるいは外衛(トノエ)と書いてある事が多い)に代が移ると色々事情が変わってくる。
 光道、白井矢太夫の事大っきらいでな…日記にも色々書いてある。それもそのはず、父光丘が遠ざけられ、ないがしろにされた原因の人物なんだからそりゃー嫌いにもなるだろう。ましてや商人蔑視されてるわけだし。
 光道はあまり藩からは起用されていないのだが、元々光丘だって色々頼まれたのを散々固辞したり、期を見ては理由をつけて辞めたりしているというのが本当の所。商人なんだから武家仕事を進んでやる事はない、という事で家訓を守り、藩から求められた献金には快く応じる形でのお付き合いにとどめて…本間家の地盤固めを徹底した人物と見る事が出来る。
 それでも荘内藩、というか、酒井殿様としてみりゃ本間家と末永くお付き合いしたいもんだから、何かと付けて役職は与えていた様である。

 そんなこんなで光道、あっというまに光丘が築いた仕事を更に大きくし、荘内で揺るぎない大旦那としての地位を得る事になる。
 こうなってくると白井矢太夫も本間家をたかが商人、とないがしろには出来なくなってきたらしい。ましてや、藩が貧乏で本間家などに頼らない事には上手く台所事情が回らないというのが実情っていうの、よぉく解ってきた所だろうしね。

 そんなおり、白井派老中はひょんなことで失脚するハメになる。それは今回長いから書かないけど、仙台藩絡みとだけ書いておこう。

 白井派が失脚することで家老に返り咲くのは、本間家を起用すべきと唱えて亀ヶ崎(酒田)に遠ざけられていた水野派である。そんなわけで光道にも色々藩の仕事が回ってくる様になったようだ。
 白井派失脚の時期に合わせ、光道は今の日和山(昔はただの、砂山。光丘、光道時代に植林をしてようやく根付いて林になりつつあった頃である)から船場町、米蔵近辺の整備や復興について藩に意見書を求められ、送り、これらの事業に従事するようになっている。
 砂山を日和山、に改名したのも確か、光道だったはずだ。砂の悪路を舗装したり、灯台を作ったり、またカコ(水夫)達をねぎらうためにも遊郭などを作るように色々藩に意見を出したりもしたようである。

 本間ちゃんが戻って来てくれたよー!という事で殿、さっそく藩校致道館をもっと城の近くに据えて徹底的に武士教育に力を入れたいんだ!という願いの元に、光道に致道館移設工事の指揮を取らせます。

 そうです。

 あそこにある致道館を、物理的に、金銭的に、作ったのは本間家です 笑

 致道館そのものを設立したのは白井矢太夫であり、致道館オッケーしたのは酒井忠徳です。
 その後大宝寺(現在の日吉)に致道館は出来ましたが、今のあの規模じゃぁ無かった模様。
 もっと学問と武家鍛錬をちゃんとしよう!という事で改めて致道館を近くに移転させなさい、というふうに光道を起用したのは次の殿様、忠器(タダカタ)です。通称、カッター(勝手に)

 十日町に致道館立てるにあたり、本間家がどのようにかかわったかってそりゃ、
 金の面に決まってるじゃぁないですか 笑 あと、様々な備品の御用達をしたのは間違いあるまいよ。光道時代には自分家の船持ってるし、光丘時代からすでに京などの職人さんに作ってもらった立派なモンをたびたび酒田に運び込んでは設置しているんだもの。

 そういう目で見ると、致道館のアレとかコレとか…揃えたのは…ってなるだろうそりゃぁ。書いてないし、書く必要はないと武士メインの鶴岡では判断したかもしれないが、そういうウンチクとか横の連結もちゃんと説明してくれないのはやっぱり今も鶴岡・酒田の仲が悪い所為でしょうかねぇ などと穿ってしまう。

*** *** ***

 そんな邪推満々で見る致道館です。楽しかったです…。春の季節にまた来よう!!(←)

 そんで次に、博物館。酒井吉之丞家の三兄弟の墨展見に行くー。

 いやぁ、玄蕃さん文字すげーきれーっては聞いてたけどマジですげー…
 玄蕃様タイプ作ればいいよ、っていうか誰か作れよwってくらいに綺麗で、かつ特徴的。
 弟の調良さんも、兄さんには敵わないとかいいつつもこっちはこっちでいやはや…昔のトラウマでお習字がイヤァー!になってしまった私ではありますが(祖父がガチお習字の先生だった…)(それで察しろ)
 人の文字を見るのは嫌いじゃない。俺が書きたくないだけ!!!
 なので、よく書き初め展は見るよw

 戊辰戦争で新庄落として秋田に進軍する道中書いた奴がやっぱり個人的には一番気になる。
 全部略が描いて無かった都合、二回目となるイサさんとシリューさんが必死の書き取りを試みていましたよ…
 しかし漢文だし、シロウトにはよく意味が取れない。
 がしかし戊辰戦争における二番隊の足取りや行軍を理解してから見ると、ああ大体ここらへんの時に書いた歌だね、っていうのはうっすら解ったりする。

 っていうか、進軍中に行軍を歌にするとかマジ風流!
 しかも文字綺麗とか!どういう事だ! …これ机に向かって書いたんじゃなくってぇ、マジメに戦争で行軍している最中に描いたもの…なのか…?後で改めて清書したんだろうか。そのあたり良く見てくるの忘れたけど玄蕃様なら道中でもこれくらいのクオリティ出しそうで怖い。

 そんな酒井吉之丞とは!
 荘内藩の殿様、酒井家の従兄弟にあたる重臣の家系。酒井吉之丞、というのが家の名前だ!実際には酒井、でいいんだが昔の人は役職含めて何代も同じ名前というのが割と普通でな…。
 例えば、重臣の一人である水野家は代々水野内蔵丞だ。どの時代にも内蔵丞が出てくるぞ!!!
 同じ意味では本間家も光道から三代全部本間外衛だから注意な!!!!

 玄蕃、というのはこの吉之丞家の当主が名乗っていて『剛毅な人』的な意味がある。よって、他の藩の他の家系でも玄蕃を名乗っている人は結構いる。
 実際酒井吉之丞家は代々玄蕃的な人が多く、酒井殿様に直接剛速球を投げる人も少なくなかったようである。それで切腹させられる羽目になった人も居るけど話長くなるからパスな!
 ちなみに今回の玄蕃様事、了恒の叔父さんにあたる人が腹を切るハメになったりしてます。
 了恒は酒井忠篤(タダズミ)(17代目藩主)からだいぶ懐かれていて、戊辰戦争での活躍は勿論の事、その後も有能ぶりを発揮したのだけど38歳位で亡くなってしまったのですよぅ…。

 本間家から攻めている都合、こっちはまだ手薄ですすいません。ただ本間家から攻めている都合、接点がある所は書けるぞ!!!
 吉之丞家は重臣なので、昔は(まだ窓際職ではなく、名誉職と呼ばれていた時代)亀ヶ崎城代なんかも務めていたりしている。多分、その頃の縁と思われるのだが…。
 本間家、中間(ちゅうげん)としてこの吉之丞家に自分家の子を送り込んでいる。
 中間というのは武家のお手伝いさんみたいなもので、江戸時代中期頃からゴロツキの類が雇われで務める様になった都合イメージ的によろしくない所があったりもする。けれどそういう雇われ中間が現れる前までは、土地土地の有力者の二男三男などが務めていたそうである。
 吉之丞家が殿様に伴い江戸に上る時に連れてった中間。それは、本間家初代原光の五男で、二代目光寿の弟にして三代目光丘にとっての叔父さんこと後の本間宗久である…。
 そして叔父さんは相場にハマって帰ってくるのだ…。荘内で括ると、世間は狭いね。

*** *** ***

 その後、ハルさんとヤマさんと合流。ラーメン食べてからのー本間家です。

 というわけで、ようやくタイトルの解説をするんですが。

 そこに叔父さんは居ません。居ませんwww
 突っ込ませんな!!!!いや、私がそういうボケかまされるもん描いたから悪いんだが!!!!

 ここらへんから叔父さん入ってくんだろ?とか都度やられると、俺本気で叔父さん侵入経路勝手にでっちあげんぞこら、っていうふうに悪くこじらせるんだからね…!?

(注: RHは神出鬼没なおじさんが義絶しているにもかかわらずこっそり家に忍びこんでくる、的なマンガを描きました。そして光治に追い返される。大抵第一発見者は光道である…)

 色々な資料から察する間取りは大体解っていたのと、この時代の武家屋敷の構造は解っていたので…すでに今下書きでペン入れ始めた原稿に変更の必要はなさそうだ。ただ、普通の人と相対する場合何処の部屋使うんだろうな?殿オッケーなあそこ使うんだろうか?庭も見えるし、まぁ、あそこなんだろうな…。
 というわけであの格子を描く必要性に迫られる訳だな。大丈夫、おねえさん勝手に描くからw

 さて旧本間家です。公民館になってたのは知っていたけど、お習字はった画鋲の穴が一杯ある部屋wwwww

 その前に軍部置かれたりしたのも知っていたけど窯勝手に増設したのは初めて知った。
 もはやテキスト知識で大体わかっているというのも変な感じだ…。そして過去描いたものの間違いを発見してまぁ、そのうち直そう…という感じで(どこかは言わないし、言ったところでそんなところ!?って感じで別にそこまでこだわらなくても…という所だと思われる)

 いやぁ、あの仏間にどんだけの仏様入ってたんだろうな…。
 この建物を建てたのが光丘で、光丘が神仏信仰が篤い所じゃなく狂に近い部類だった事を知っているのでこの規模を見てももはや何も驚かない…。おどろかねーけど普通の人はそりゃー、びっくりするだろうなぁ。

 今はあまりしなくなってしまった習慣ながら、いや、祖母の実家である某寺に行くと必ずやるんだけれども。

 まず、家に帰ったら真っ先に仏壇に行って手を合わせるんだよね。そうだったそうだった。
 だから、玄関明けてまっすぐ向かいに超デカい仏壇あっても別段問題ないよな。帰って来てまず手を合わせるんだし。

 お話に在る通り、収納スペースがほとんど皆無である。ようするに押入れがない。
 都度必要なものを蔵から出してきて、不要な時は仕舞ったという。…ええと、つまり、布団も…か?と、密かに思っていたが聞けなかったなぁ。聞けばよかった。

 この屋敷、表は武家屋敷で蔵のある方が商家作りになっている。使われている木材も違い、作りや梁の高さも勿論違う。こういう作りの屋敷は全国見回しても…まず無いのだっけか?とにかく極めて珍しいもので、しかも立てた当時からほぼ姿変らず残っているというのだからすごいもんだよ実際。

 これを建てたのは三代目光丘。そもそも、藩主が変わり忠徳になった時にこの、徳ちゃんがまだ幼なすぎたために国目付が派遣されてくる事になり、その巡視団を迎え入れる為に作ったものである。
 が、作って使い終わった後にこの建物を貰う事になっていたらしい。そもそも光丘が自力で立てた建物なんだからそりゃー、貰ったって構うまいと思うだろうが。当時としてみりゃ商人なのに武家屋敷作るってんだ、一応武家としての禄は貰うようになっていた光丘ではあるが、こういう機会でもなければ公に自分の屋敷なんて立てられる立場ではなかったのかもしれない。

 そんなわけで、最初から半分武家屋敷で、半分商家作りという不思議ちゃんになっている。

 で、ちゃんと調べないで書く事ながら。
 あの立派な庭、作った当時は無かっただろうと思うんだ。臥龍の松は原型があっただろうけど、庭の整備は恐らく光道がやっちゃったんじゃないかと思っている。武家屋敷って、あそこまで立派な庭作るもんだろうか?お庭は武芸稽古する所だろ?

 ましてや、国巡見師団はずいぶんな人数が来たらしいし(代表は二人だけど)
 二人を迎えるに付き人数十人、応対する庄内藩士、それらを控えさせるに庭は必要だろう、空間として。
 あの状況ではなかった、と思う。

 ようするに、光丘が住み始めた頃はまだ庭としてはそんな立派なもんじゃなかったと思っている。
 そんな妄想をしながら現在の原稿です。
 別荘も含めて庭を作ったとされるのは実際光道や五代目光暉だったらしいしね。

 さてそんで…この家は、光丘時代から使っているわけだから…。

 義絶されていた叔父さんこと、宗久はね、多分、敷居をまたいだ事が無かったと思うよwwww

 だから、実際叔父さんはそこに居ないの!ね!? 居たらおかしいの!!!でも実際居たら可笑しいから居た事にするけど!こっそり!

 叔父さん、一度大阪行って、戻ってきた頃には光丘、この屋敷に住んでいるけどその時はまだ義絶中です。真面目に義絶されていたなら互いに家には上がり込めませんw
 でも叔父さんの事だから、建設中の本間邸に何やら小細工は仕込んでいても何ら不思議に感じない…。
 困った事に(←)旧本間家を作り始めた年に、おじさんは一旦大阪から酒田に戻って来て倉庫業を始めているんだ…。何細工されててもおかしくない…やらかしそうである。
 殿様なんかも受け入れるんだって?じゃぁ、秘密の脱出通路作っとかないとだな!とかいって大工そそのかしてなんか抜け道とか作ってそうなイメージである。金沢の忍者屋敷みたいに…とか描いてたらおらワクテカしてきたぞ!?(多分ないです)

 さて真面目に、その後宗久は倉庫うっぱらって(光丘、というか光道に)江戸に出てしまうのです。
 根岸に屋敷立てて…いや、その前に江戸相場を大阪と同じく散々ひっかきまわして大金を得て、出羽の天狗ここにありと名を立ててから根岸に屋敷立てるわけです。そんで寛永寺務めで幕府方金貸しになって相模守として封じられるわけなので、

 まぁやっぱり宗久はあの屋敷には足を踏み入れてないんだろうな、と思われます。

 逆に本間家の連中はこれ見よがしに根岸本間邸を江戸宿地にしてるので結構出入りしてるっていう。
 江戸が焼けてなかったらなぁ…根岸の大本間屋敷は戊辰戦争後に某に売り払われたらしいけど、などと痕跡を一応は追っていたりはするが実際そこに行く勇気はまだちょっとない。

*** *** ***

 補足とかいれたらずいぶん長々になったね、いつもの事だけどさ!

 そしてついつい夜更かししていまった…ヤバい寝ないとだ。


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総評、庄内藩  [シェブロン県の話]

もう総評でいいのか。いや、そもそも私はどういう立ち位置で地元歴史をどーじんしていくか?という事を探りつつネタを探す為にひたすら調べ物をして、それは今も続いているんですが…

ざっと現在の状況をまとめてみよう。

というか、そうやって文字にしたためてアウトプットし、改めて読んで自分の中で整理する。
そう言う作業を脳内でやらんでWWWに放置プレイ、というのが正しい。

 なぜ放置プレイするか、というとそもそも、私が今攻めようとしている所は本当に、本当に!世間一般的には理解されていない所であるなぁ!!!と感じるのでせめて何処で誰が見てるとも分からない底のふかーい埋め立てゴミ地に捨て置いてみよう、誰か読むかもw
 という感じである。

 結構真面目に調べちゃいるが、未だに江戸時代の崩し文字を完全には読めないし(努力はすれどやはりムズイ。慣れる読めるようになるものらしい)漢文も完全に読めているとは言えない。

 そういうわけで、どこから情報を得ているかと云うと。
 元となる資料を読み込んで、一度一つの解釈をされてアウトプットされた書物、が主になっている。
 こういう資料から情報を読み解く時はだなぁ…同じ方向からだけ読むと危険なんだ。とくに歴史というのは解釈によっては千差万別で、過去の人たちが本当の所どう思っていたか、本当はどうだったかなど結局は推測で語るしかなく、完全にこうだった!という答えがあるわけではない。

 そこは所詮、歴史のエラい人の解釈、すわなち声の大きい人の自説がまかり通って世間の通説となるっていう極めてゾクなモノだという認識が、

 ぶっちゃけて昔から私にはある。

 社会化、あんまり得意じゃなかったのだ。その理由として、詰め込み授業だったからだ。その時どうしてこうなったか、という事を横の連携をあまりせずに『~の変』みたいに勝手な区切りを置いて事件性を理解させられ、その事象に勝手な名前がついていてその名前を丸暗記させられ、ぶっちゃけその名前の指す意味を覚えていなかったりとか、間違っていたりとか。

 逆に科学系が得意だったのは、科学は事象なりその名前を覚えるに、事象とはどういう理論でどうなる事であるか、という事も同時に理解する必要に迫られる(そりゃ、科学だからな)からだろう。

 私は理論がないと名前をちゃんと覚えられない人だったんじゃねーかな。今も理屈っぽいしね。で、理屈を述べたいのだけど人はとかく結果だけを求めてくる。

 大事なのは中身であって結論じゃねー

 というのが私の主張だ。(それでもシャカイ的には結論が全部なんだが…そのくせ理由を求めるから理由を説明しても結局理屈はいい、って言われるのがシャカイである。もう開き直って悟っている)

 とまぁ、ようするに言いたいのは。

 庄内藩マンセーの人が描いた本だけ読んでも庄内藩の事は良くわかった事にはならない。

 という事です。

 色々本を読んでみて本当にそう思う。シェブロン県内だけでもこうなのだから、いずれ少しずつ読む資料の幅は広げ、新潟と秋田、米沢からの歴史も読まないとなー と思っていたりする…くらいには

 地元歴史にどっぷりいってます。

*** *** ***

 本来、こういう事を研究し、良く知っている人があーだこーだと文字を書き連ねるべきだ、

 というのは、ブログというツールが発達した現在、全く通用しない理論だろう。
 しかし件の理論はブログについても同じだ。むしろ、ブログの方がその点注意して閲覧しなければならないと思う。
 時に一方的な情報を知り、それを元に適当に文字を連ねてつらつら素人ながら語るがブログ。

 うちのブログはそれにも劣る埋め立て日記なんですがね。

 それでもマジになった以上はマジに追及はする。
 という事で、以上の事は理解したうえで以下の事を書いている、という事をご理解いただきたい。

 ようするに何が言いたいかと云うと、現在の『総評』ではあるけれどまだ全てを平等に見きっている自身はないながら、私は出来る限り『平等』な視線で庄内藩というのを考えて以下『総評』を書きたいのだ、という事です。

 解り辛い?オーケー。

 ようするに本間家好きだけど本間家好きだから本間家マンセー視線からは評価するつもりはないという事だ。

 庄内藩地元だから好きでヨイショしたいけど徹頭徹尾酒井殿様はのびた君あるいはジャイアンであるという評価は変わらない。

 そう言う事だ 笑

 でもどーじんとしてはマジメするつもりよりかは『まず知ってほしい!』と云うのが先だから、こういう真面目な事はあまり展開するつもりはない。

 けれども、一般的に庄内での通説をそのまま通すつもりはさらさらない。

 というわけで、具体例を出しながら…話を前に進めて行きませう。

*** *** ***

 まず…三国転封事件を例にあげよう。日本史において一番有名で一番マレな結末に終わった江戸時代末期の国替事件の事だ。

 幕府の命令は絶対だった江戸時代においてて、この三国転封は 色々あって中止された。
 ようするに三つの国が処替えするようにという幕府の命令が、唯一撤回されて無かった事になった事件である。

 細かい事についてはとりあえず端折るが、
 この国替えが中止された第一の理由として…我が庄内藩の農民一揆運動があげられているだろう。
 農民一揆というものはだね、出てしまうと『治世不届き』という事で処罰の対象になるものである。処罰されるのは国(藩)を治める側、すなわち殿様だ。
 庄内藩の殿様は江戸中期以降酒井左衛門尉である。

 つまり、国替えを命じられたのに対し農民一揆が起こった場合、国替えという処罰の一つが中止になる、というのはおかしな話なのだ。知行取り上げ(治める土地の取り上げ)が処罰として加算されたまま国替えしろと言われてもおかしくない状況だというのに何故か、幕府が折れてしまい庄内は国替え処罰を免れてしまったのである。

 なぜか。

 庄内で起こった農民一揆は、一般的な打ちこわしではなく…これと全く逆で、殿様とお別れするのが嫌なのでこのまま酒井公を庄内に置いてください!という嘆願運動だったからである。

 …打ちこわし出ない農民一揆がおきているのは日本史見回しても庄内だけである。

 というオンリーワンを持っているのにどうしてこの事実はそんなにピックアップされていないのか。
 それは、その後この国替え中止事件は明治維新(江戸時代が終わって明治になり、将軍は居なくなって天皇が国を治める事になる)に繋がっていくからなのです。

 まぁようするに、明治維新で将軍家(佐幕派)から天皇(勤皇派)に方向転換し、そして今に至る通り。

 江戸時代の美談など現在の天皇中心の政治においてどーでもいい。

 という風潮があった都合歴史に残す事が出来なかった、というのが一つ。勝った者に関連する美談だけが持ちあげられ、声高に唱えられ続けたのが現代史です。ただ、現在はそういう風潮が世代の切りかわりにより変って来ているのは間違いない事でしょう、

 二つ目、庄内においてこの、酒井家を庄内に残す為の運動としての農民一揆を、江戸幕府の命を裏切った事になる事情から表立って歴史として書き遺す事が出来なかった、という事。

 まぁ、そうだよね…庄内としては転封しなくてよかったという話だけど、それは幕命に反しているんだからほぼ反逆行為にも等しい。幕府側から中止とはした事とはいえ前例はないし、後に続く例も庄内藩にしかないのだから、どんだけ庄内藩 勝手やねん、って話である。そこはモノの見方によるのだ。

 そして三つめ。
 美談として語り継ぎたいのはあくまで『国を治める側』であって実は農民側では無いという事。
 さぁ、これが問題だ。藤沢センセイも躓いたというぞ、私も同じく調べいくにつれて途中でなんか違和感は感じていたんだ。
 それはつまりどういう事かと云うと、本当に農民が主体となって酒井公を慕って転封阻止運動を起こしたのか?その首謀者は、何を望んでそのような一揆をおこしたのか?

 そもそも一揆っていうのは農民達が支配階級である藩や殿様に対して不満をぶちまけるべく割と無秩序に行われるものであって、統率がとれていて暴発しない一揆って何よwwww なんで首謀者いんのwwww

 である。首謀者は、いたのだ。居た事は明言されている。しかし彼らが本当の所どういう意図で一揆を首謀したのか、という事が、この事件を『美談として語りたい』側から修飾されているよね?

 というのが違和感の正体であるらしい。

 そう、美談として語りたいのは一揆をおこした農民じゃぁないのだ。こうやってお前たちは俺の統治を望んだだろう?という事で後世に残したいのはぶっちゃけて、殿様側(藩士側)だったりする。そして歴史をひも解き研究し、書を残す連中というのは大体は農民側ではなく藩士側である。

 この事実を知ってしまうとなるほど、庄内の三国転封阻止農民運動は、美談と語るにちょっとまて、ってなる。

 がしかし、だからといって首謀者の全貌を証し、彼らの陰謀で彼らの特権を保持するためだけに農民たちは使われたにすぎないのだ!と逆の理論を唱えるにも、ちょっとまて、ってなった。

 ぶっちゃけ首謀者とは誰かと云うと、まぁ都合幕府に睨まれたくない都合資料を『全く』残して無いという徹底ぶりではあるもののどー考えても庄内藩のチート…いや、奥羽のチート、本間家である。

 ところで本間家は藩士でもあるが根は商人。どちらかといえば支配者側にあるわけだが、特権階級で仕事としては郡代側におり農民と密接にかかわっている。しかし商人であるので特権階級ではあるけど一般的な藩士連中程に治める側の理論を貫いては居ない。どちらかというと、農民の為に明治になってから土地改革や農具開発、品種改良などに力を注いだという実績から見てもどーみても農民側に寄り添いたいというイメージが私にはあったりする。
 本間光美隠居後なわけだが、このあたりに踏み込むのはギリギリのラインかな、と思っていて実はまだ明治中期の歴史は余り読み込んでいないので、理解の及ばない所もあると思う。
 がしかし基本、殿と蜜月なので山居倉庫を作るに助言したり出資したりもしちゃってるところ、農民側から本間家はどう見られておったのやら。
 …山居倉庫問題は、うーん…語ると話がまた飛ぶから今回はパスしよう。実はこのあたりも色々ありましてな、山居倉庫スゲーという本が割と多い訳です。でも、これの管轄本間じゃなくて酒井だよなぁ、っていうのを理解してから私、ぶっちゃけ見かたが変ってしまった。

 だって酒井ってのびたくんだろ?

 っていうイメージ全く払拭してませんからね…。というか庄内藩士側に色々と疑問点があるのだ。彼らの統治が真っ当だ、というイメージが無く、明治になっても封県制度を貫きたい気概満々なのを理解するとうーん、ちょっとまてよ…ってなる。

 とにかく、本間家が実は酒井家の転封こまるから農民一揆をおこさせてなんとか中止にならんものかとあれこれ手を回した事は、割とゆるぎない事実に感じる。
 この事実を極めて隠したい、あるいは触れたくない側の資料を読んだ段階でも
『おいおい、お前らの陰謀だろこれwwwwどう見てもwwww』と思ったくらいだ、そう簡単に無関係を装えるもんじゃねーだろ。

 ようするに転封を中止させたい本間家の理由、というのと推測していくと
『結局金持ちが自分の特権維持するために幕府にたてついて、その方法として農民を使いやがったのか、卑怯!』
 という見方もそりゃぁ出来る。
 しかし本間家というものの性質を考えてみると、確かに特権維持や資産維持の目的はあっただろう、その為に農民を『使った』というのも事実だろう。
 けれどそれを悪しき、的に断じるのはどうなのだろうか?
 何はともあれ転封したら酒井家は土地に課していた借金を一気に取り立てに来る。酒井家や庄内藩士に金貸してる本間家も、連中が去る前に借金は回収したい。借金払う為に農民から絞る、という図になるのは当然の事でそれが、転封というものだ。これは何処の土地でも変らない事だろう。
 故に、転封さえなけりゃ、突然の借金取り立ても無いのに、という考えは当たり前すぎる。
 転封を前に借金返済に苦しむ農民の怨嗟を、転封命令に転嫁する事はそんなに悪い事なのか?

 …そうして幕府に暴動を起こすならば藩としても黙っていないだろう、暴動を起こしては転封は加速するだけである。では、この農民達の苦しい状況を改善するためにはどうすればいいのかというと、
 農民一揆運動を極めて穏便に、暴力では無く心情に訴えかけるべく幕府に働きかけ、なんとか取りやめなり、延期なりをするように運動するよりないのだ。
 
 ようするに、『統率する』必要性に迫られているのである。統率出来なければ暴発し、事は悪い方に転ぶだけだ。
 よって、恐らくは首謀であろうチート本間家はこれを、極めて内密に統率し、一揆を指揮する必要に 迫られたのだろう、というのが…私の考えである。
 私欲の為に農民を統率したのではなく、現状庄内農民をなんとかするには転封は無かった事になるのがベストである。幕命だから覆る事は万が一にもない、というのが当時の考え方だろう。

 それでもなんとかしてみよう、

 そうやって、なんとかしちゃったのが三国転封事件なんではないだろうか。

 で、そういう前代未聞のなんとかしちゃった事実を、大々的に歴史に残したくなるのが人間のサガというものだろうがそれを、本間家はしなかったのだ。出来ない、という事を承知の上で運動を行っていたから、記録は一切残っていない。そもそも残ってたら困るし迷惑掛るだろうから、あったとしても表ざたにしていないというのが本当の所ではないかと思うのだ。

 ところで、これを裏付ける資料などと云うものは一切ないw
 一切無いのだが、そういう歴史の読み解き方も不可能ではない。最近この歴史について足を踏み入れた者には、どうしてこの問題は大きく知られていないのか?という疑問が湧いて出る。様々な事情に精通していれば都合が合ってもにょもにょ…というので声が小さくなるのだろう。庄内歴史を研究している期間は庄内藩側と、本間家側の光丘文庫が大御所でありますからな…

 私はそういうの全く関係ない所に居る為に、まぁこうやって埋め立ててみるのです。
 そして、ただ美談として三国転封を書くつもりが無くなって、実は本間家がなんとかしてしまったようです、と描いてもいいもんかな?という事に置いて、どうしてそういう歴史を残しておかないのかな?という疑問がわいた事をガッテンしてくださいまし。

 *** *** ***

 しかし本間家って真面目に金持ち土地持ちすぎて…どこまで歴史改ざんに関与したか、疑いの目を向けると本当にきりが無い。
 どこの金持ちも、権力を持つと大抵自分の都合のよい様に歴史はひん曲げるもの、という固定観念の様なものがあるのも良くないんだろうけど、
 無いとも限らないだろうな、絶対ない、とは言い切れないのが実情。

 しかし感情的には、あと今現在把握している本間家(ただし宗家)の性質からみて…

 そんな事はしないんじゃないのか?

 という感覚もあったりする。あの人達チートすぎて一々事を改ざんする必要などないんじゃねーの?とも思う。それくらい、存在が大きすぎて圧倒的なんだもの。やる事が『ちゃんと』してんだよ、商人なんだけど数理に長けてる一族だから理にかなってる動きをする。故に無駄が無い。

 それに対して庄内藩側。ようするに酒井殿様と藩士とか家老とか役人衆。

 こっちの方が色々ありすぎて、そしてコマゴマ隠ぺいやらの事実があって 笑えてくる。
 と同時に、こうやって人間だものと自分らの都合のよいように歴史を改ざんし、隠し、伝える事こそが本当なのだろうと思う。そういう事余りする必要もなく長々と酒井家と付き合ってる本間家の方がいろんな意味でおかしいんだ。というか、うん、おかしいんだよあの家…なんなの。叩いてもあんまりほこりが出ないとか、マジなんなの。

 鶴岡、酒田に残る歴史上、極めて出てこない話の一つに、酒井忠発(タダアキ、通称アッキー)を巡る内部のいざこざ問題がある。アッキー、お父様で先代の忠器(タダカタ、通称カッター)と仲が悪かった事をご存知の方は多分あんまりいないだろう。お家騒動だからこー言う事は地元の歴史家に任せっぱなしだと表ざたになりにくいんだ。で、カッター派からみると良い殿とは言い難いアッキーを、廃嫡して別の人を殿様にしようとした計画があって、中で色々ゴタゴタやってるんだがまぁ、この歴史が隠ぺいされている事 笑

 私は酒田、本間家側から酒井を調べている事が多い。
 で、本間家はカッターはもちろんアッキーからも どっちからも何変わりなく取り上げられていて変らない付き合いをしているように記録には書かれている。実際、当時の宗家である本間光道晩年から本間光暉、光美の時代においてそれなりの石を頂きそれなりの職務を回されているのだから、遠ざけられている気配はない。カッターとアッキーにまたがって接しているのは光暉になるのだが、二人の殿様に変わりなく接見している記録があるから、本間家側から見る限り、カッターとアッキー親子が不仲である様には見えなかったりする。

 が、実際にはカッターとアッキーは水面下で足をばたつかせ蹴り合っているのであるw

 というか実際にはアッキーが勝手に遅く来た反抗期で旧藩臣を不審がっておもしろくなーい ってやってるだけか…な。
 
 本間家としてはお家事情には触れず、なのかもしれないし、藩が見せないようにしたのかもしれない。
 そのように、見る視点が変われば歴史っつーのは結構変るものなのだね。そして残された記録だけが当時の手がかりとして残り、それを元に歴史というのは大体妄想されて補完されてしまうんだ。

 庄内藩、総称。
 やっぱり酒井家はのびた君である。ただ、転封当時はどう見てもジャイアン。その後のびた君になっていくのだ。そして時に先祖がえりしたみたいにジャイアンが現れる、そんなイメージ。

 それを支える藩士連中は、アッキー問題に絡みガッチガチの封権制度で明治を迎えたために、ワッパ事件など様々な問題を起こすに至る。ぶっちゃけて考え方が固執しているのが、本間家というチートが居るだけに目立って解ってしまう。

 金儲けは悪という武士の考え方の都合、利殖によって藩財政を立て直した本間家サイドをフツーに悪人扱いしている。ようするにそれはものの考え方なんだけど、当時の武家というものは金儲けはしてはならないというのが『風紀』だったんだろうな…と、その記録から読み解ける。
 でもな、本間家士分になったけど商人やめてねーから。あと、金儲けする奴らなんて心がひん曲がっているから商人達の金など踏み倒しても良い、という考え方はどうなのか…。
 今はおかしいと感じるけれど、当時としてもそれは正しいと言い切れるのか?結局固定観念で上から目線、先々まで見通して計画立ててる本間家に対し未来までを見通す事の出来ないその場解決が藩士達の特徴として見られる訳で、ああつまり庄内藩としてはやっぱりそんな優秀だったり特別なわけじゃぁない。

 どう考えてもそういうダメなのびたくんを秘密道具で何とかし続けた本間家の方が特筆すべきものがある。

 でも、俺達すごいんだぜがやりたい鶴岡ひいては庄内藩は、それらしい話を必死に語る。そういう時決まって本間家の事は出てこない 笑

 …というのが、庄内藩ですな。

 酒井家と本間家が仲良すぎるのに対し、
 それぞれ鶴岡と酒田に置き換える事が出来るにもかかわらず鶴岡と酒田の仲が悪いw
 トップがラブラブなのに部下達が対立しているというのが庄内藩です。

 だめだこいつら面白すぎる。


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君達は誰の子なの問題 [シェブロン県の話]

難問にあたりました…と、その前に。

こちら、カテゴリーをご覧ください。地元の話です、つまり、歴史の話です。
ぶっちゃけて本間家の5代目6代目相続問題についてのあれこれです。オープンなブログでやらかしていいのか微妙なんですが、上手い事まとめてある書が在るわけでもないので…。

自分の中で整理という事で、したためさせていただきます。

というわけでさっそく参りましょう。難問です…家庭問題と庄内藩と明治維新を経ての廃藩置県で露呈した、
五代目本間光暉 および六代目予定だったが廃嫡した本間光和(鈔治)、
結局六代目だった本間光美と、光和の子孫である光貞と光清(耕曹)のすったもんだと、

その間に挟まってる 酒井忠発(アッキー)と他諸々の問題を自分向けに整理しようと思います。

*** *** ***

まず何の話やねん?という事からご説明せねばなりますまい。本間何某(ナニガシ)とは、シェブロン県は海側の酒田に住んでたチート級の豪商一族で、名実ともに日本一の地主だった一族の事を言います。
詳しい事はググって光丘あたりを読むと良いよ。実際には光丘時代よりも後の(光丘は3代目)今回問題とする五代目光暉(コウキ、以下面倒なのでコーキと記載)や六代目光美(コービと記載)の方が圧倒的にチートであったらしい。ただ、能力的な面で言うと光丘と光美が群を抜いてチートである。

 度合いがどんくらいか、という事を後世に広く伝えているモノが書も含めあまりないのでアレなのですが、
 庄内民以外がこいつらのチートっぷりを世に歌い『本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿さまに』などと殿さまよりも上に見ている事情から事をお察しください…。地元民はこんな歌は歌ってないんだ、歌っているのは大阪とかアッチの方の人たちでその噂が逆輸入してきているんだ…。

 さて次に、時代背景は光丘から四代目の光道(光武、と記載されている事もあるが同一人物である)(また、店の名前として久四郎というのも光道の事を言う。実際には光丘の名前なのだが、店の名前としては光道時代の店の名前は『光丘の店』という名義になり久四郎になるのだ。ややこしい)
 …の子供たちの世代、5代目の話です。

 まず第一問題提起。
 4代目光道(コードーと記載)は妻運が悪く、子供が居ないッ!がんばったんだが最高20歳で死去してしまったんだ!という事で後継者問題に悩む羽目になり、その所為で本間一族の間で養子問題がもつれにもつれまくったのが第一問題。

 極めて個人的な見解ではあるのだが、コードーは俳諧にハマりすぎていたキライがある。
 あくまでキャラクター的な膨らませて誇張したものとして、コードーの頭の中の半分以上は俳諧の事だったと思っている(笑)
 だから奥さんから愛想つかされたり、ギリギリまで後継者問題で躓いたんだろうとか勝手に妄想している。

 まぁそれはともかく、

 そういうわけでコードーは実の息子である庄司(=光弘)を跡継ぎにと考えていた所20歳で病気で無くしてしまって大慌てする事になってしまうのだ。妻運が悪く、正妻は勿論の事、妾にも男の子が他に居なかったんである!
 居たには居たんだけどやっぱり若くして死んでしまうの連続だったようで、実際庄司君も正妻の子ではなかったりする。
 なにより、庄司君が亡くなった年、コードーはすでに60歳になろうかという歳だったので限界も良い所だったのだ。別に晩婚だったわけじゃないんだ…結婚した女性が少なくなったりすぐ別れてしまったりの連続でとにかく、子供が居ない訳じゃないんだがなんか運が向いて無かったんだな…。

 庄司君が無くなった年に生まれた光和(=鈔治、金剛 以下、サジと記載)を生まれて間もなく養子に貰った事にするコードー。普通養子というのは在る程度育っているものを貰うものなのだが、コードー、庄司君の死去がショックだったのか、とにかく子供欲しくて生まれて間もないサジを『これは俺の子だーーー!』という感じで養子にするのでした。

 さて晩年迫りコードーは本腰据えて後継者を考えるターンに至ります。
 鶴岡の藩にはサジを『実子』として届け出て、その母として妾だった人を正妻にも昇格させたりしている。
それにしたってサジは年端がいかないわけだから、後継人としてサジとは別に5代目宗家を継がせる者を見つけなきゃいけない。

 そこで白羽の矢が立ったのが、光丘の弟である光治の子供、光敬の二男、源吉事 光暉(以下コーキ)である。

 サジを乳飲み子の状態で実子として貰い、それと並行して源吉を後継者として修行させるべくまず、本間家恒例行事を行わせます。すなわち、国外修行だ。ちなみにコードーの国外修行がどこだったのかが実は私、調べられないでいたりする。それはさておき、
 まだ宗家に養子にされていない段階のコーキは養子になる4年前、
 光丘の娘が松山藩藩士に嫁ぎ、その関係で本間家入りした町野家本間(中の口本間家)重継さん家に『養育の為』養子となる。

 …昔の人たちの名前って、代々同じだったりするからとってもアレなんだが…。

 この本間重継さんちは松山藩士の家系である都合か、代々みんな重継っぽいんだよな…。
 そこで色々勘違いが在るような気がするし、私もしているのかもしれないんだが…。
 重継さん家に養子に入ったのに、そこにコーキの五歳年上の兄『重継』さんが居るんだよ。わけわからんw
 某書には4年そこらの義理兄弟関係で喪に服すか?などという愚が書いてあるが、服すだろ。何言ってんだ、おめ、本間家だぞ…?本間家どんなのか解ってんのか…?
 
 何のために本間重継家に入ったのか、色々憶測はあるんだろうが私は例の国外修行の一環とみております。恒例行事だなんだろw

 四年後コーキは宗家コードーの養子となります。で、実子としたサジをコーキの『子供』と届け出、ついで
以下後継者問題に困らないように、という配慮から コーキを五代目、サジを六代目指定して…

 コードーはこの世をさったのでした。

 見事に裏目に出ましたね…。お陰で困ったのが実質6代目となったコービである。

*** *** ***

 何が起きたか、というとまず、

 サジが29歳で病死するというアクシデントが起きます。
 …既にこの時、コーキは養子であり後継者であると定められたサジを藩主である酒井忠器(タダカタ。解りやすく以下、カッターと書く)に紹介していてる状況だ。

 サジが亡くなった年、サジの子供として光貞(以下コーテイ)兄と、光清(=耕曹 以下コーソー)弟の兄弟があって、彼らより一年年上でコーキの長男としてコービが居る状況です。

 しかしてコーキはコードーの定めた順序を違えるつもりはなく、その後育ったコーテイを実子コービを差し置いて藩主カッターに向けて後継者であるとお目通り願いを出している。

 つまり、六代目廃嫡となったサジの子供の方がたとえ、コービの方が一つ年上だとしても、宗家存続権は上であるという認識を持っていたわけだ。

 ところが、だ。

 …庄内藩では光丘、いや、光寿時代より数えて100年近い月日が流れその間ドラえもんとして藩を支えた本間家に、はんぱねぇ信頼っていうかむしろこれは依存症というか、そういう関係が続いておりまして
 さらに。
 その時コーキは藩の三国国替事件解決の後だった。カッターもその息子で若殿の酒井忠発(タダアキ、ゆえに解りやすく以下アッキーと記載)も、諸事情により歴史の上では詳しく記載できないという長岡転封阻止運動をぶっちゃけて記載はされて無いけど絶対指示して支えて居たに違いないコーキに向けて、足向けて寝れないくらいの勢いで恩を覚えているのは間違いないだろう。
 そんなわけでカッターが、実子ではなくサジの子供たちを後継者として連れてくるコーキに向けて最高判決をくれてやるのね。

 YOU、YOUの子供を跡継ぎにしちゃいなよYOU。

 当時、つまり藩制の時代、殿さまの言う事は家老達が決めた事よりも圧倒的に絶対判決です。
 ましてや本間家は商家である、武家としての側面も持っていて禄も貰ってるけど遡っても武家には当たらない、根っからの商人。

 ぶっちゃけて光丘時代から『殿には常に会いに来ても良い権』を獲得してしまったチート本間家ではあるのだが(フツーは考えられない事だろう…それは…家老でもないのに…)
 そこをおごってはならぬ、上の人には絶対的に服し務めよ!というのが家訓である以上、奢る事を絶対しない本間宗家が、カッターからの最終判決に目をぱちくりさせる。

*** *** ***

 いや。いやいや、でもね殿、そうはいっても先祖代々、定められた事は守るというのが俺ら一族の規則という奴なんで…そう簡単に言われても。
 大体亡くなったサジと、サジの子供たちが浮かばれないだろう?
 俺は荘吉(=コービ)を後継者として育ててはいないし、健吉(=コーテイ)の片腕としていずれ代人としてはそりゃ育ててますけど

 「あ、じゃぁコーテイとコーソーはうちで貰うよ!!!」

 …あのね、殿…

 「武家として即座石を与えて召し抱えるから問題ないよ!」

 ……(まぁ、藩主の命令だから…これを覆すのも家訓に反する、か?)
 (そもそも藩主の命令に背くってのも、アレだしなぁ…)

*** *** ***

 という感じに、サジの子コーテイとコーソーは本間宗家から外される事になるのだった。
 その後、二人は藩士として、特に弟のコーソーは武芸を色々極めて大活躍するわけだが、コーテイの方の子孫が後本間病院のインチョになる所や、コーテイ自身が画家だったりするあたりからして武家ってガラでもなかったのかもしれない。

 この、宗家から外された事で実はいくつかの不遇があったというのが、後に藩制が排されて明治時代が台等してくるにつれてコーテイ、コーソー兄弟の間で爆発。

 ちょー、鶴岡の藩の記録見るとー、俺らー、正式な六代目の息子だからー、今の六代目がコービなのはおかしぃしー。

 という事で本間家に対し家督相続不順、という訴えを掛けられる事になるのだった。
 曰く、当時の殿である酒井家から家督相続を干渉されるのはおかしいだろう、という旨も盛り込んであるのだが、当時はまだ藩制なんだからそうはいっても、今さら覆すわけにもいかないだろうとコービ、宗家気質の都合か即座当主を止めて隠居してコーテイに当主の座を渡そうと思います!などと手紙にしたためて相談していたりする。
 実際問題、この訴えの所為でコービは早くに隠居して、しかして実子の光輝に7代目は継がれる事になる。

 つまり結局家督相続不順の訴えは取り下げられ、和睦となったという事だ。

*** *** ***

 サジの妻がね、なんか冷遇されたとコーテイ、コーソーは思ったらしい。宗家から降格され藩に抱えられた二人はいいとして、血縁関係にはない母親の方は即座実家に戻されてしまった。また、宗家大事!が基本方針である本間家において、宗家とそうではない家という区別ははっきりさせている都合、廃嫡となったサジ以下山の手本間組(コーテイ、コーソー)は宗家の墓の列に並べられなかった。

 結局は訴えられて、山の手本間は『特別扱い』になったんだが、実はそうなるにもう一つ困った難題がある。

 それは、

 結局サジは誰の子供であるのか?  という事と、それに絡み コーキは誰の子供なのか?
 という事だ。

*** *** ***

 藩に向けて、コードーが養子であるのにサジを『実子だから!!!』と届け出ていた。
 これを見てコーソー(訴えたのは実質コーソー。)はびっくりしたのだろう。

 というのも、本間家が酒田に届け出ている上では、サジとコーキは『実の兄弟』でどっちもコードーにとっては養子だからだ。

 実際問題どうなのかというと、ここがまた微妙。

 まずコーキの方から見てみよう。
 コーキは光丘の弟コージの長男であるコーケイの二男であるという。一方で、コージの二男、という文章も拾ったんだがこれは年代的に間違いだろう。

 光丘の弟は弥十郎・光治。代人も務めた本間宗家に近い方である。他にも弟居るけどまずはここだけ。
 弥十郎・コージの息子が 弥十郎・光敬。同じ名前になるのは良くある話。コーケイは長男である。
 このコーケイの子供に長男として金十郎・光長(光高?)、二男が源吉・コーキ、三男が金剛・サジ。
 コードーの後継者問題につき、コーキを松山藩の重継さん家に養育の為に養子に出す。
 所が、コーケイの長男コーチョウが若くして死んでしまう。亡くなったのは文政9年とあるが、一説に文政元年であろう、という。
 
 文政元年なら成るほど、まだ後継者問題がゴタゴタしていないので、コーケイは後継者がないので一旦養子に出していたコーキを生家に戻していても何も不思議はない。コーケイは文政2年の段階で後継者男子がいないので養子をもらいます、と鶴岡藩に届け出ているのだから実際文政元年が正しい様にも思う。

 ところが、この文政二年にコーケイが貰った養子というのが源十郎・重継の弟である源吉(22歳)だというのだ。

 おいこらまて、確かにコーキの幼名は源吉だが、文政2年だとまだ16歳だぞ。6年年が合わぬ。

 それに、コーキはコーケイの実子で二男なんだから、重継の弟じゃない。あと、もし文政元年にコーケイの長男が無くなったとしてそこから後継者を探し文政2年に養子をもらったとしても、その段階ではまだ源吉君事コーキは重継ん家に養子にいってない。コーキは18歳の頃重継ん家に行って4年間修業し宗家の養子となって22歳で5代目を継ぐんだぞ?

 という事で、この場合考えられるのは…

 コーキの5歳年上である重継義理の兄には実の弟の源吉というのがいたのだろう。あるいは、別の名前であったのに記録がおかしくなり、大体近い時期に養子として入っていたコーキ=源吉の名前が勝手にスロットインされたか。

 この問題、如何に解くか。…考えてみた。

 まず、コーキ18歳で重継家に養子入りがおかしい。実際問題としてはその丁度4年前に庄司君が無くなってサジが生まれ、後継者問題が勃発しているのだから…。文化13年頃にコーキ事源吉は重継ん家で修行に入ったと考えるのが妥当。そうすると14歳から18歳まで、が養子期間となる。18歳で入ったのではなく、18歳の頃すでに養子として重継ん家にいた、という記録なのだろうと推測する。

 すると、多分コーケイの長男が死んだのは 文政9年あるいは元年ではあるまい。
 文化9年だ。
 それなら話のつじつまがあうじゃないか。…誰だ文政九年は元年に見えるとか書いた奴ぁ…。

 すると、コーケイの長男であるコーチョウが死んで4年後に庄司君が亡くなった計算になる。という事は、20歳成る前に死んだ可能性が高く、そう考えるとコーキは二男ではなく実質三男だった可能性も無くも無い。コーケイの長男が死んだ段階ではまだコーケイには跡取りで悩む事はなく、コーキも居たしもう一人兄が居た可能性も高い。ちなみにサジはまだ生まれてない。

 まぁ、そんなわけで一説による『コーキは重継家の実子で在る説』はとりあえず伏せておけると思う。
 どちらにせよ本間家宗家の家系には変わりないから問題はないしなぁ。

 次にサジ。

 コードーは鶴岡藩に『俺の子だか!!!』届を出しているが、本間家の記録の上でサジはコーケイの三男である。先にも書いた通り生まれて間もなくコードーが『俺の子!』宣言をしたために、記録の上では光武(=コードー)の実子と書いてあったりする。

 そう、サジとコーキは実の兄弟なのだが都合、父と子という届をしている間柄なのである…。

 とはいえ、サジがコードーの本当の子供であるのなら、実の兄弟で在る説は無くなる訳だけども…。
 しかしサジが実子だとするならコードー61歳の時の子供という事になる…それは、ちょっとどうなんだろう?ありなのか?当時の寿命的にどうだろう?
 ましてやコードー、一度大病を患って一時期廃嫡願い出してたくらいなんだぞ、その後回復したから再び後継者として登録しなおしている。
 サジが生まれた頃、妾の一人を正妻に登録しなおしており、この妾との実子がサジである説、というのがあるわけだが年齢的に微妙な気もしている。でもタイミング的に妾を正妻に昇格させている訳だから…もしかすると実子なのかもしれない。本間家の記録の方を後でちょろまかした可能性も無いとは言い切れない。

 しかし、この説を否定する材料というのがこれまた酷くてな…。

 まず、本間家家史編集した人の性格から見てねつ造をする人では無い。調べて調べまくって史実に合っている方を選んでいると思われる。それは、現存しているという彼によって整理された資料の状況をみるにそんな性格を感じ取れるのではないかと思ったりする。

 次に、コーソーが訴えた時に藩主酒井アッキーがコーソーの訴えに対する返答が、だ、(すなわち、本間家の家督相続に殿とはいえ他家である酒井が横やりを入れた事についての説明)
 要約するに
『実はサジ君はコーキの実弟なんだよ!血がつながってるんだ!コードーがコーケイから密かに生まれて間もなく貰い受けて養子にしたんだけど、キミが見た記録の通り、鶴岡藩には実子として届け出ているんだ!
世間一般には実子だったけど、僕や父のカッターは実情を知ってい居たんだよね、だから君たち兄弟は別家にしてコービを宗家にしなよって提案したんだよ!
 まぁ、君たちその頃まだ幼かったから知らないとは思うけどね!』
 …ってマジにそんな手紙がありやがるおい…おい…。良い訳がましいにも程がある(というふうにどうしても見えるだろうこの場合…)

 サジは一体だれの子供なの?
 本当にコードーの子供なら色々ひっくり返るんだけど、本間家史実的にはコーソーの訴えを退けた都合もありサジはコーケイの3男だ。

 まとめてみると、コーキの問題は片付いたとしてやっぱりサジはどっちが正しいのかどっちも正当性はあるから何とも言えなくなる。なんとなく、酒田に隠し通せず事実を遠し、鶴岡には表面上を報告しているような気はする。ましてや本間家、酒田では商家で鶴岡では武家なんだしさぁ。

 ただ一貫して言えるのは、

 コードーてめぇめんどくせぇ事してくれたなオイ!

 という事です。

 とりあえず時間も無い事なので終わります。
 個人的には、コードーが俺の子宣言して鶴岡に届け出たけど実際の所は養子の方が面白いから以下略。
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わかった、本が無いんだ! [シェブロン県の話]

調べると結構いろんな事が分かるんだけど、その解った事が世間一般的に大体通用しない、つまり、

大衆向けに発行された本が無いんだ。理解した、無いものは 在った事にはなりはしないのが現代というもの。

 何の話かって?荘内藩の話だよ 笑

どうして藤沢センセイは架空の藩にしちゃったのよ!!!!

 具体的にちゃんと調べつくしているとは言えないけれど、とりあえずマンガの類はほぼ皆無とみて良いんじゃないのかと思った。他の主題に対し脇役として出てくる、という事はあってもそれ以上はない。準主役並みに活躍しているから徳川四天王第一を務めているのに、諸事情があって後世彼を伝える書物が少なく、その都合無かった事にされかけている…

 荘内藩 酒井左衛門尉wwwww(笑うしかない)

 雅樂頭(うたのかみ)の方が江戸時代にちゃんと江戸幕府の役職についている都合アレなんだよなぁ、
かたばみ紋だ!って良く見たら、剣 か た ば み だ って成る事の多さよ…さめざめ…

*** *** ***

 荘内藩主は酒井ザエモンイ。紋はかたばみ。
 播磨姫路藩主は 酒井ウタノカミ。紋は剣かたばみ。(かたばみの間に剣がついている)

 江戸時代においてはウタノカミさんの方が上、しかし荘内酒井家ではここから嫁さん貰ってる事もあったはずだ。その時に格式の違いどーこーいう話があったはず。

 酒井家にもいろいろあんのね、という所は勿論いろいろあるのです。徳川だって御三家っつって水戸様と一ツ橋様があるじゃないですか。

 色々あって分家して、酒井家にも色々あるわけです。

 で、酒井家というのはどのあたりから認識すればいいのかというと、遡って行くと家系というものはどこまでも辿っていけるものではあるのですが、

 とりあえず在る程度の区切りを設けて考えた方が分かりやすいと思います。
 とりあえず江戸時代に照準にして考えるに、まず江戸幕府を開いた徳川家康と酒井左衛門尉はどういう関係かという所からにしておきましょう。

 四天王筆頭が 酒井左衛門尉 です。

 すごいですね、うん、すごいんだけどね。代が変われば非凡出会ったりする事も良くある話です。
 酒井左衛門尉として一番スゴいのは 酒井忠治 でして、これに関連したモノが忠治自体は荘内には所縁がないけど酒井繋がりとして色々あったりもする。私個人として一番近いのは鶴岡の山王神社にあったりする。なんで忠治やねん!って思ったけどそーいえば庄内に転封されてきて3代目位の人が
 先代の祟りをおそれてノイローゼ気味だったな…と。
 その時なんか沢山の因縁を鎮めるためのアレコレを建てている。多分、それの一つなんだろう。

 さて酒井忠治、織田信長や豊臣秀吉にも関連している極めて有能な武将なのですが(主君としているのは徳川家康)有能すぎて秀吉におきににされすぎてしまったり、織田家の没落に関してちょっと手厳しくやりすぎてしまったり、家康のその後を考えすぎたばっかりに… 等ありまして、

 荘内転封になった、という曰くもあります。
 一方で、こちら日本海側の要なのでアンタが居なきゃだめなの★的に説得させられたという説もあります。

 多分どっちもだろう。

 庄内転封後、あれこれありましたが、忠徳さんの時代に入って本間家という四次元ポケットを手に入れます。以後、何をやらかしてもドラえもんがなんとかしてくれるわけです。まぁその前に四次元ポケットから出てくる黄金色の秘密道具を使うに当たりかなりの教訓めいたものも叩きこまれ(た事にしておこう)
 ヘタな治世は行わず、四次元ポケットから繰り出される秘密道具のお陰で藩士たちへの教育にも力が入ったのだろう。
 不況に対してはドラえもん達が事前に手をうっていたので農民達はあんまり苦しまずに済む事になった。(隠し田んぼがOKでな、すごい所に畑が在るのは、多分隠し田だったんじゃねーかな…と)
 借金は大体四次元ポケットを持ってる人が無かった事にしてくれたりしたので武士たちは生活に苦しむ必要はなくなりつつあった。それで、ちゃんと『さむらい』としての本文として武芸をみがく暇があった。
 文化的にも酒田湊が開けていた事もあって京が直結していた。

 江戸時代末期、その集大成として荘内藩は戊辰戦争を迎えVS官軍になった時、負け戦無しで終戦を迎える事となるのだ。

 江戸時代末期というのは明治維新、つまり大政奉還、幕府から天皇に国を治める権利を返す(武家が国を治めるのは、遥か昔の時代より天皇よりその職を預かっている、という立場である)に至る世情にある。
 ようするに、地方をおさめる国々が江戸幕府の統治についてゆけなくなり、ついに薩摩藩が反乱をおこすに至る事情を察してほしい。何かあればすぐ難題を押し付けられて、上手く国を治世するに最終的には金が絡み、借金返済出来ない国は更に治世が行き届かず荒れ放題となる。
 そういう背景にあって、庄内酒井は 『神田大黒』と呼ばれていた。屋敷が神田橋のすぐたもとにあったからだ。
 飢饉があっても無理難題を押し付けられてもなんとかするし、大火などで屋敷が燃えてもすぐ立て直してしまう。庄内地方の裕福さは、果ては江戸城大奥にまで聞こえ、件の三国転封を引き起こす引き金の一つにもなった。
 将軍が変わる頃に行われる地方の巡回記録において、東北地方はどこにいってもぱっとしないが、山を越えて庄内にはいると別天地と言われている。家畜は肥えていて、衣服は綺麗で建物は立派。話し言葉も丁寧で(京が直結してるから、北前船で)文化的にもきらびやかときた。

 光丘以後、庄内は飢饉があっても災害があっても、飢餓死者を一人も出していない。それでも庄内で野垂れ死んでいる死体が沢山あったそうだが、実はそれは、庄内にいけば食い物があると聞いた他国の人たちがたどり着いては力尽きたものであったそうだ…。

 金銭的な余裕、生活裕福の上には 余裕 というものが生まれる。
 そのすきまにこそ文化的な、そして思想や主義の上で大切な道徳を守る精神が育まれるものだろう。
 貧しいのにキレイ事をいっても腹が膨れる訳じゃない。
 腹が膨れているから、キレイ事を並べる余裕が生まれるんだ。

 まぁ、そんなわけで…江戸時代最後の『武家』の一つと数えて間違いないんだろう、

 酒井左衛門尉の別格家臣の家系として『酒井吉之丞』家というのがありましてな…(要するに親せき筋なのだ)
 ここで、戊辰戦争において『鬼玄蕃』と呼ばれている酒井玄蕃(了恒)が登場。江戸時代末期において極めて厳密かつ士道精神に正しく則り、君主酒井公の『代々続く家の名を汚さぬ様に事を成せ』との命令を極めて正しく把握し、かつ実践させてしまった人である。

 解りやすく言えば酒井忠治が数百年の時を越えてやってきちゃった、

 くらいのチート『武将』。というか、酒井忠治がそもそもチートだろうに、戦国時代でもないのに戦国武将来ちゃった!みたいな。

 ぶっちゃけて言ってしまえば戊辰戦争は西軍(官軍)の勝ちである。

 官軍が東北、上越においてどんだけひでぇ事していても、歴史は残念ながら勝った方の都合の良いように書かれるものだ。
 そして、負けた方の事はひっそりと秘されてしまうもの。
 いやまぁ、ぶっちゃけて戊辰戦争における東北勢(奥羽列藩なにがし)は酷いありさまでしたからな…残念ながら江戸末期で各藩金銭的な余裕はなかったようだ。武士としての矜持など忘れ去っていて、過去の栄光に胡坐をかいていて士道を磨かずにおいたとしか言いようのない散々な在り様。大藩である仙台からしてそうだったし、米沢も先々代が立て直したにもかかわらず以下略で、会津藩も早とちりが多く、長岡は超がんばったけど周りの援軍に恵まれてないときた。

 庄内は一応米沢や仙台に遠慮して色々口出ししないようにしたみたい、っていうか、口出しできないよねぇ援軍の立場だし、とかいう感じでやきもきしたらしい。

 私怨じみた幼稚な官軍指揮官に右往左往させられる東北勢の中、振りかかる火の粉は払うのみ!という感じで淡々と軍隊を退け、あるいは逆に制圧しては戦線を広げたのが荘内藩。撤退したのは椿台と、虚を突かれた関川近辺くらいであとは体外官軍を蹴散らしては、戦争だから略奪もやむなしというような連中から次々と村々を救っては『荘内様』と呼ばれたという。

 軍規読むだけで うほぅっ ってなるからね。
 こんな規則ちゃんと守らせる事が出来るって事は、それだけ心身と懐の余裕があるからだろう。…ってくらいになかなか厳しく事を書いている。
 戦争なんかになったらこんな風に体裁を守って士分として恥ずかしくないように、なんて行い守ってられなくなるのがフツーだ。

 ところが、ちゃんと守って行軍したってゆーんだから フツーじゃねぇ。

 実際荘内藩は極めて金払いがよく、略奪行為などしなかったし死者は敵味方関係なく弔ったので 軍隊が来れば逃げる農民達が、むしろ汁炊きだして歓迎しちゃってる位だったそうだ。
 お陰さまで地元民からの情報提供も受けられる。

 どっちが奥羽鎮撫軍だかわからんわwwww

 四次元ポケットが世界最新鋭装備揃えましたからね…。でも武器最新じゃなくてもぜってー強かっただろ、荘内軍。

 酒井玄蕃のチートな所は、忠治と同じくで先々のことまで考えて事を考えた所ですね。勝ったからといてただ領土を広げて行った所で『この戦争には勝てない』
 荘内藩にとって戊辰戦争の『勝ち』とは、戦争を止めて穏便に新しい統治に向けて建設的な会話をする事、だったりします。
 残念ながら残念な官軍の指揮官達の所為でそれすらできずにいたりしたのだ。それが戊辰戦争の本当の姿であろうと思う。

 今までお世話になった徳川幕府を裏切るような、士道に反する事は出来ない。幕府も柔軟な姿勢を見せて大政奉還等行っている訳で、別段反抗的になっているわけではない。何かと付けて反抗的だと言いがかりをつけているのが官軍の方であり、ただ単に血気盛んで東北やっつけておきたいだけじゃん?もうちょっと大人に話し合いをしてほしいんだけど、ちょ、撃ってきたし、そしたら防衛はするし、やられっぱなしは武士の名折れだしっ

 というのが荘内藩の立場。別段幕府を助けて官軍をやっつけよう!までは言ってない。

 奥羽列藩同盟もやっぱりそんな事は言ってない。

 言ってないんだが、列藩同盟の無能な一人がなんか同盟の主旨を間違えちゃってそれらしーこと言ってしまって言葉尻取られて墓穴掘りまくったらしい。…まぁようするに仙台米沢あたりがダメダメだったと。

 とにかく、そういう所を酒井玄蕃は間違いを起こさず正しく理解をしていて、それに沿った助言や進言を行っている。
 だから殿が、
 降伏して話し合いをした方がいいや、なんかあっちのちゃんとした大将がくるみたいだから話し合いできるっぽいし、
 という風に撤退を呼び掛けたら即座撤退している。勝ってても。

 *** *** ***

 かくして、荘内藩は会津藩のような悲劇を起こさず、むしろ薩摩藩とは大の仲良しになってしまうくらいに恩赦され…今に至る。本来なら敵味方なんだからいがみ合ってもいいだろうに、実際東北はどこにいっても薩摩憎しだろうに、

 荘内藩だけは西郷隆盛エルオーブイイーである。日本最古の同人誌発行するくらい。

 平和だったのね…戦争はあったんだけど、余裕の行軍で江戸末期一人戦国武将やってるくらいだったから、苦労とかを書き連ねる必要性がきっと、なかったのね…。

 加えて三国転封を唯一取りやめにした事件にしても、最後まで幕府軍として抵抗した事にしても、
 今見るとスゲェ事なんだけど当時としては国政とは違う事やっちゃってるからあんまり堂々といえる事でもない。

 最後まで酒井殿様が国に居る事になった庄内地方はこうして平和に平和ボケして今に至るのだ…。

 平和すぎるんだな、多分。他の地方はもっと壮絶な事が起きてるんだろう。人の死んだ数なんかもはんぱねぇんだろう、庄内地方は誰それが死んだ、っていうのを過去にさかのぼってピックアップし過ぎているとは思ったけれど、それは壮絶な最期を遂げた人の絶対数が少ない、という事に他ならないのかもしれない。

 最後まで戦国武将、だった都合もあってだろうか?他国(他地方)の人に無関心、というのが鶴岡民(武士側)の第一特徴としてあると言われている。未だに、だ。
 その弊害として新撰組の前身として狩川の清河某が作った浪士組の、荘内藩預けになった方(江戸治安取り締まりに当たった方)
 新徴組(シンチョウグミ)の、戊辰戦争後の壮絶な鶴岡における記録とかを読むと うぁお、ってなります。

*** *** ***

 ぶっちゃけて藤沢センセイが書くものを読めばわかる通り、残念ながら基本的には平和なんだよ荘内藩。

 ならば平和なりに平和すぎる事を書くしかないんだろうな、誰か(他力本願)
 平和だった、というむしろ異常な状況を書くしかあるまい…。それが、最大のネタなんだから。

 それにしても俺よくここまで理解したよな、たった4ヶ月の間に…
 我ながら酷いと思う。(と、四か月前の埋め立て日記を見ながら思った)

 これでもまだ全部詰め込んではいないと思ってる所、おい、お前、どこまでが全部だと思ってるの?
 と、セルフツッコミを心の中でキメてたね…。

 手元の資料無しで、頭に中にとりあえず在中した知識だけで勢いに任せて書いたので、若干読みにくい書き方になっているとおもわれます。埋め立てブログなので、ぶっちゃけてこうやって勢いに任せて書く事で自分の頭の中も整理する、という役割も果たしているのでご了承ください。

 じゃぁちゃんとした文章とは何なのかというと、
 それは小説なりなんなりちゃんと囲いを決めて話を組み立てた場合が ちゃんとした、になります。

 酒井家はEGさんがやってるからあえて手出ししようとは思わないんだよね、今こうやって徹底的に調べてはいるんだけど。
 それは私が四次元ポケットを追いかけている事情、どこで秘密道具が使われいるかを理解するにのびた君を調べておく必要があるからです 笑

 酒井吉之丞家と本間家の接点はあるかどーかというと、ぶっちゃけてあるんだよな、初代の段階で…。
 しかし初代だからその後どう関連があるのかどうか解らない。吉之丞家バリバリの武家なので、光丘時代になって商人でありながら士分、と云う風に本間家が藩に食い込んで行けばいくだけ疎遠になっている気はする。とりあえず懇意にしているという文章は見た事無いけど、吉之丞家から嫌われているという文章も見てはいない。どっちかっていうと菅家などに近い所からみて、そして菅家が本間家とはのっぴきならない関係な所から見て、割と昔から縁は在る気はするけれども。

 戊辰戦争時、本間外衛(光美)って500石になってんだね…そうか、そこまで増えてんのか。
 副隊長各より上じゃん、武家じゃないのに 笑
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研修って言って奴らは何を見てくるの? [シェブロン県の話]

改めて核P-の感想戦をやろうとおもったんですが、

思ったんですがやっぱりその前に書く事がたくさんあるじゃないかよと思ったのでそっちから。
この前のガタティアの事とか、突撃してきた東京の事とか、酒田市のアレとか…。
あと、実は風邪引いてました顛末記とか。
とりあえずようするに 地元ガンバレ!という事をオチとするべく一つ一つブログってる時間を近年ちゃんと取ってないという都合から…。

シェブロン県チョイスでややマジメな話をば。

*** *** ***

いやー何あの低投票率。大体察してはいたけど…市長選が絡まないとそこまで低いかそーかそーか…。

無関心ではないけれど関心するような話題が無いのも確かな話で、実に情けない話でもある。俺が、俺が!っていう熱意がほとんど無くて、あったとしてもその熱意に同じく熱くなってくれる人も少なくなっている。

そんなんでいーの地元?市議のみなさん、それで、酒田をどうしたいのか。それとも酒田をどうこうして自分が食っていきたいだけかしらん?

 形式だけを踏んで、それで得票が伸ばせるとでも?投票率が上がるとでも?投票率など上がらない方が良いのか、変な遊票でヒヤヒヤするよか、投票してくれる有権者だけが自分に、着実に票を集めてくれればいいとでも思っているんだろうか。思ってんだろうな、思ってるんだろう?そうじゃないと反論できる材料がないからそう判断されるよりないんだ。
 ゆえにどうすればいいのかというと、そう受け取られてしまったのならそれはそれでしょーがないので次にそう取られたくなければ努力をしていただきたい。

 とりあえず言いたい事はそれだけ。

 所で話は変わって、市議の皆さんはよくよく経費で研修旅行とか行く、らしい、んだけど本当かな?
 ドコいくの?県外?国外?いってどーすんの。ちゃんと行った先から自分たちの国(地域)を見てるの?考えてるの?

 現在の酒田市の惨状を見ると全く考えたりしている形跡が感じられませんぜ。

 県外には色々なすごい仕掛けがあるんだ。…ここ近年地元でそういうスゴいのに出会った試しがない。

 このスゴいというのには色々あるんですが、スゴいのやるにはまず自分の国(地域)にどんなスゴいがあるかを理解し、把握する事から始めなければならないものでしょう。
 残念ながら 外部から見て、外部が理解している者から 比 較 し て 、 という概念でしか我が地元のスゴい達は評価され、解説が成されていない。

 ダメ、それじゃダメだから。

 他人が理解している所を足がかりにするのは良い事だけど、スゴい事に庄内には足がかりがないスゴい事が沢山ありすぎるんだ。足がかりなど探していたら遠回りすぎる。

 スゴい事を具体的に説明するに、相手が理解している外部のスゴい事を例にしすぎだ!
 そんなことしなくても、ちゃんと順を追って解説したり、現代の物事に例えたりすることで当時のスゴいはちゃんと伝える事が出来るはずなんだよ…!!!

 *** *** ***

 というわけで話は変わりまして、先日突撃で三回目になるらしい(をい)江戸東京博物館に行ってきました。
…三回目らしいです(二回目がうろ覚えだけど、今回行ってきたらなんとなく思い出してきた。そして列をなしてだらだら通って見ただけだったのであんまり記憶して無かったんだ、と思った)

 ぶっちゃけた感想を申しあげますと、規模はデカいけど展示物もスケールデカいけど、

 そんなたいしたもんじゃぁない、日本人的には。

 すごい外国人の観光客が沢山いて、きっと彼らには非常に刺激的だったに違いないと思う。

 まずこの博物館は『東京』博物館でもある。故に、都内の学生は常設展示まではいつでも無料で出入りできるのだそうだ。うらやましい!そういうのがまず、大事だと思った。

 ゆえに、江戸から昭和までの東京の流れを見る事が出来る訳で、ざっくりやってしまうとまず、

 江戸時代っていうのがありましたー。

 明治維新、戊辰戦争でこの江戸時代の制度が崩れ、まずここで上野が焼け野原ですね。1868年。
 文明開化があって色々新しくなっていくのは良いんだけど…どんどこ戦争に傾いて行ってしまうのです。

 色々ありましたが1904年に日露戦争があってー1915年頃に第一次世界大戦だったか。まだこの頃は本国に上陸されてはいない日本なんですが…そういうのが次に、関東大地震で全部ぶっ壊れます。

 その後は第二次世界大戦が君を待っている、という感じで最終的にどうなったかは皆様ご存知の通り、本土攻撃にさらされて原爆が落とされ、降伏となりました。

 関東大震災から立ち直ったにもかかわらず結局東京は空襲で再び焼け野原になりました。1945年。

 そんなこんなで東京にあった古い街並みなんてのはほとんど破壊されつくして…現在あの状況です。

 ゆえに東京だけ見たりすると古い街並み懐古という事でオドロキもあるのかもしれない。
 ところがもとより古い街並みとかいうのを見慣れているとこれが、そーでもない。

 江戸時代的を感じられる街並みは、地方都市にはこっそり残っていたりするもので、実は庄内にはそういうものが非常に多い。
 かつ、江戸と同じく火事が多かったためスクラップ アンド ビルド が激しく昔の町と今の街の差が結構あったりする。

 ゆえに、規模は違えど江戸東京博物館で見れる展示物ってのは地元でも見れるんだよね。うん、規模は違うし地域も違うんだけど。

 ところがここ最近ようやく正しく理解したんだけど、江戸時代の庄内ってのは荘内と書くのだけども…。
 パワー的に言えば 江戸、大阪、神戸、京都、長崎、と並べて実はその次に来るくらいに東北一円(奥羽)で一番ナウい所だったんだよ…!!!北前船があったのと…本間がいたから(笑)

 ところが土地的に遠い事もあり、実はここがこんなに栄えている事は知られている事ではないようだ。
 江戸においては神田橋たもとに第一館のあった酒井家(荘内藩主)が神田大黒と呼ばれるくらいなんかしらんが富んでいた事は、大奥にまで聞こえていたそうだ。故の理不尽な領地替え騒動が起こったとも言われている。酒井家が諸藩に比べて裕福だったのは、だから、本間が(以下略)

 大阪におてはアレだろう、後で江戸に行っちゃうんだけど…大阪の米相場で全勝ちした出羽の天狗さんがいます。米相場を震え上がらせた分家本間の人な…故に大阪では出羽の酒田っつー所は以下略。

 とまぁ、もうすこし江戸時代までは東北において荘内とか、酒田とかいう地名が出てもいいはずなんですが…残念ながら外に出るとなかなか認知されていない。なぜか。

 荘内メインの歴史モノがあんまりなくて知名度が無いからです。


 藤沢先生はさ…どうして架空にしちゃったかねぇ……。いや、架空にしないと荘内藩主がヘタれなのが際立つからか…!?あと、あのチートを書かないといけなくなるからだな 笑

*** *** ***

 では江戸東京博物館は面白くなかったのか?否。

 最上階にある図書館が…はんぱなかった。ここ無料で入れるんですけど…え…ちょ、っ…。

 あそうだ、江戸東京博物館の常設展示の中にきっちりかっちり地元が出てくる所がある。戊辰戦争で最後まで降伏しなかった荘内藩を攻め落としに来た、イギリス製の戦艦が飛島沖で座礁したんですが(ざまぁ!)そこから引き揚げたものとかの展示がありましてねぇ 笑 別の引き上げ品を酒田の資料館でも見る事が出来ますよ。

 ここで地元と比較して考えてみるに、

 地元は資料が散文しすぎています!!!!!山居倉庫と資料館と鐙屋と本間家と本間美術館の一部は…

 セット展示してしかるべきだと思います。(それぞれに入館料が掛るから!!!!!)

 しかし縄張り争いとしまして 山居倉庫は作ろうよとそそのかしたのは(言い方)本間光美ですが、作ったのは酒井家側。
 鐙屋は純粋に36人衆側。
 本間家は後から来た豪商なうえに藩士もやっていたので立ち位置が別腹すぎる。

 …もしかしてそんな感じのナニカの都合もあったりするんだろうか。
 ともかく歩いて回れる距離ギリギリ(本間美術館除く)ではあるんですがそれにしても移動距離と、移動時間が観光客には致命的である事をご理解いただけていないのでは?と思う。

 こういうアホな観光地を作ったのは、他の観光地を見て回った事が無いからだと思う。
 車での移動が当たり前のように考えた作りもしかり。もう少し足回り、タイムスケジュールを考えてやって観光地づくりをしたらどうなんだろう。
ツアー客だけが観光客じゃないんだ、大事なのはふらっとやってくるバックパッカーや、コアな歴史ファンの方じゃないのか?
 ぶっちゃけて、今の観光地だけ見たって今私が展開しているような知識を理解出来るかって言ったら、絶対出来ないだろうって思う。解説が足りていない。

 これは鶴岡の致道博物館に行った時も思ったけれど、まず見て面白いと、歴史にあんまり興味の無い人も掴める解説を置くべきだし、子供も読めるように振り仮名は付けるべきだ。そして出来れば英語訳も!!!
 その点加茂水族館の努力は素晴らしいものがあると思います。加茂水が当たったのは観光客に向けてちゃんと努力したからだろう、その努力が見えるもん、ちゃんと。

 地元はさぁ、足元にちゃんとお宝埋まってんのよ?
 地元民がそれに気が付いてないだけで、その宝の磨き方を知らないだけじゃないのか?

 って、思いました。そんな江戸東京博物館突撃でございましたとも、

*** *** ***

 戦利品は江戸の古地図と現代地図を合わせた 歩いてみよう地図。
 こういうの作ってほしい、というか個人的に作りたいんですが 笑 その原本の地図どこで持ってのって聞いたら、酒田の奴は本間家だろうって言われて えー ってなってる。 あ、でも手書きトレスならいいんならトレスするわ、うん。

 うーん、ちょっと風邪が治りきってないので変に上から目線になった気もするけどまーいーやー。寝よう。
 あ、あとBGMがギプノザだから行けないんだと思う 笑
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荘内藩で狂犬病はあったか [シェブロン県の話]

借りる本借りる本佐藤三郎先生の本でうへぇありがとうセンセェーってなってます。

出来れば欲しいが多分、買えないよねぇ古書の扱いだよねぇこれ。…欲しい。

さて、本日は割と真面目なブログになります。埋め立て仕様じゃなくて、結構ガチ。
シェブロン県、庄内地方の江戸時代、すなわち荘内藩時代に 狂犬病はあったか?っていう。

 なんでそんな記事を、という事を先に書くとですね。
 庄内地方に昔あった出来事(ある程度は史実や日記などからあったとされている、とされているのでフィクションではない)をまとめた本をこの佐藤三郎先生という方は沢山出しておられており、主に新聞などのコーナーを飾っておられたようだ。
 で、今さら地元にハマったからこの先生の本を片っ端から読む訳よ。
 本はね、そこに文字があったらたとえCM欄でも隅から隅まで読んでしまう、という悪癖というかなんというか、そういうタイプの本の虫(というより文字の虫)だから、
 とにかくあ、ここあんまり僕が求めている話じゃない、あと、難し過ぎて(宗教関係については正直これだけは興味がわかないので理解しようとする意識が足りてないのだろう)解らない、とかゆーところも。

 なぜか全部読んでしまうんだ。うん、わからねぇ、とか思いながらもなぜか読んでしまうんだ。

 まぁそんなわけで読むのね。読むと、 おや?
 って思う所があるわけです。科学系に偏った趣味をしているから、これが史実に近いなら おや? っていう事が書いてある事がある。

 それがすなわち、狂犬病を発症した犬(であろう)から噛まれた人達が数週間後に 狂犬病の症状(らしき症状)を発症した、そして全員死にました…ってならなかったから

 おやあああ?!

 ってなったのでついついガチに調べてしまったという事をまとめます。

 あの…結構ガチにそれだけなんで読みたい人だけ読んでくだされ

*** *** ***

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